-
机上の空論
-
夏は人をおかしくすると思う
「伊月君知ってた?人って夏になると性欲が高まるんだって」
ミンミンゼミとアブラゼミのクソみたいなセッションをBGMに前の席の伊月君に世間話を振りかける。私の机の上には数学のノートが2冊。勿論1つが私ので、もう1つは伊月君のだ
「はあ、それは掘り下げた方がいい話題なのかな」
「いや別に」
ノートを貸してくれている恩人伊月君の呆れ顔をスルーして、ひたすらにシャーペンを走らせる。人に見せてもらう課題というのは脳を使わないのが利点だ。ただひたすらに真似て書けばいいわけだからこうして余った脳みそを会話に使うことができる
「終わりそ?」
「あとちょい」
しばし沈黙の時間が続く。
退屈そうにこちらを覗き込む伊月君は方向をそのままにした椅子に跨りながら夏の暑さをこめかみに滴らせている。
見守ってくれるのは嬉しいけれど……
「色男にさー、そんな見つめられたら照れちゃうんだけど」
視線が、痛い。
これは率直な感想だ。
伊月君は趣味兼特技であるダジャレを披露しなければただの爽やかなイケメンさんなわけで、サラサラな黒髪を風に靡かせながら汗ばんだワイシャツをパタパタとされてはこちらとしても少しくるものがある。
作業を中断してそう訴える私に伊月君は至極真面目な顔で口を動かした
「いやさ、さっきからナマエの額に蚊が止まってるんだよね」
「は……」
指摘されて初めて襲いかかる、痒み
いやいやいやいや、
ペシリと自分の額を叩いて掌を確認。そこには血を流して潰れている1匹の蚊の死体。勿論この血は私のであり、子を産むための栄養補給所にされた私の額は即座に猛烈な痒みを発疹させていた
「だから見てたの!?ってかなんで見てるだけなの!教えてよもう!」
「教えたじゃん」
「吸われてからじゃ遅いでしょ!」
「カッカッカッ」
「ええいやかましい!」
痒い痒いと嘆く私をヘラヘラと嘲笑う伊月君はあろうことかつまらない駄洒落を織り込んできた。なんという高等技術。煽りのスペシャリストか
「蚊に刺された時ってさ、こうしない?」
「え……?は、ちょ、いたいいたい」
睨みつける私などお構いなしに、右手を私の頭の後ろに固定する伊月君はそのまま左手の指で私の額に爪を立てる。
「はいOKでーす」
解放されても残る些細な痛みに私のライフはもうゼロだ。恐らく多分、いや絶対、私の額にはバッテンマークが刻まれたであろう。小児科の先生のように振る舞う伊月君はこんな時でもやはり爽やかだった
「ってやば、あと5分で予鈴じゃん」
「俺のノートもあと5分で閉店だからな」
「ええっ」
そんなこんなが私と伊月君のいつものやり取りなわけで、課題に関しては席替えしてから毎朝重宝させて頂いている。勿論ギブアンドテイクの心を忘れちゃあいないからお昼には貢ぎ物を贈呈している。
「伊月君めっけ、日向君おはよ」
食堂で伊月様々に捧げる、コーヒーゼリーの入ったコンビニ袋。今日はオマケに野菜ジュースもついている。一連の光景は見慣れているとばかりに苦笑いをする日向君は伊月君を伝に知り合いになった友達であるから彼への挨拶は必須事項だ
「おう、お前も大変だな……いや、お互い様か」
「今夏、お互いサマーだな!」
「伊月黙れ」
キタコレ、なんて指を立てているが私にはイマイチその感性は分からない。それは日向君も同じなようで毎回変わることのない一蹴方法で伊月君のダジャレは闇に屠られた
「じゃ、今日もノート見せてくれてありがとね!」
「おう、また忘れてこいよ」
「コーヒーゼリー欲しいだけじゃん」
私は私でいつも食事を共にする友達がいるわけだからここで解散だ。
その後午後の授業を受けて、部活して、下校時間になって、以上が私のスクールライフ。ワンデイだ。
しかしこの日はいつも通りじゃなかった。冒頭にも言った通り、夏は人をおかしくする
「あれ、伊月君は?」
「まだ朝練じゃね?」
朝教室へ来てみれば私の前の席はがら空きだった。それはつまり、私のノートもがら空きになるわけで
「しまった。頼みの綱がいない」
「自分でやれや」
状況は絶望的だ。バスケ部はどこの部活よりも気合いが入っていてこうして朝練の時間が長引くこともある。大いに結構なことだが私の課題が終わらないのは大いに結構じゃない。
即座にツッコミを入れてきた隣の席の男子と目が合う。嫌な予感を感じ取った彼を問答無用で黙らせたのは100円玉だった
「ジュース奢ります。見せてください」
「しゃーねえなー」
ハラリと投げられたノートは伊月君程ではないがしっかりとした文字でその課題を完遂させていて
「超ありがとう!!マッハで終わらせるね」
どちらにせよ今の私には金の斧よりも有難いものである。サラサラと一から全てを書き写す作業に没頭できたのはその間雑談というものを取り入れなかったからであろう
「よっ、おはよ」
半分程仕上がった頃に聞こえたその声に私は勢いよく顔をあげた
「もー遅いじゃん!」
勿論約束なんてしていない、お願いする側のセリフとは思えない私のそれに伊月君は困ったように笑った。やはり朝練が長引いていたらしい。
「あーくそ、見せてもらってたか。俺のコーヒーゼリー……!」
「残念でしたー!」
ケラケラと笑えばまた逆方向で椅子に座る伊月君。次にカバンをガサゴソとあさり出したかと思えば手に取ったのはもう私には用済みのノート。
「今から見せるからそれでセーフだろ」
「スリーアウトチェンジだわ」
どんだけお昼のコーヒーゼリーに命かけてるんだコイツは。どんだけ私の慈善活動はカレに影響を与えていたのか計り知れない。差し出されたノートを突き返せばわざとらしくむくれられた。様になるのが腹立たしい
「おい伊月、忘れモン」
そんな私達に廊下側の窓から声をかける人物が一人
「いっけね、サンキュ日向」
私の中では大分お馴染みとなった日向君は伊月君に忘れ物と思わしきタオルを手渡すとまた机上に広げられた課題のノートを見つめ私に呆れ笑いを浴びせた
「今日もコーヒーゼリー献上かよ」
それには定番と化したワードと少々の誤解が混ざっている。自然と出たドヤ顔に人差し指を付け加えた。
「ちっちっち。今日はアナタ達が朝練に精を出している間に別の人に借りたんだよね」
「マジかよ」
どうやら私が伊月君以外からノートを見せてもらっていることが意外だったようで、呆れ笑いは苦笑いへと変更となった。もっと屈託の無い笑顔がみたいものだ
「なるほどな、まぁお兄ちゃん離れできて良かったじゃん」
そう述べた日向君はいつも私達の関係を兄妹に例えていたようだ。兄に貢ぎ物を捧げる妹というのも嫌なものだが例え方としては模範的だ。しかしそれに即刻水を差し込んだのはそのお兄ちゃんだった
「ちょっと待て、俺はこんな出来の悪い妹知らないぞ」
「ちょ、ひどー!」
いつものような人の悪い方の笑みを浮かべてピシャリと日向君に言い返す様をみて思わずブーイングが口から漏れた。日向君はそれが面白かったらしく今度は私の方に切り替える姿勢を見せた
「だとよ妹さん、どう思う?」
「はぁー、私だってこんなお兄ちゃんやだ」
「なんだとー」
昨日の虫刺されに追撃を成すようにシャーペンを逆向きに私の額に突き刺す伊月君。消しゴムのカスで反撃をした。おーおー喧嘩すんなと仲裁に入る日向君はやっぱ兄妹だろ、と再び私達をそう評価した。
ならば今度は私が水を差す番だ
「伊月君はどちらかと言うと彼氏枠でしょ。カッコイイし色男だし」
カチリ。
「……」
「……」
「……?」
伊月君の頬杖が傾いた。日向君のメガネも傾いた。私の首も傾いた。あれ、私何かおかしなこと言った?
空気が一瞬にして固まった気がした。どうやら私が差し込んだのは水ではなく速乾性のセメントだったのかもしれない。早く誰か突っ込んでくれ、そう思い視線をやった伊月君はびっくりする程に耳まで真っ赤であった。日向君が傾いたメガネの位置を直す
「……なんつーか、妹さんの方は正直なみたいで?」
伊月君に挑発的な視線を向けている日向君。
その一言で私の顔にも火がついた。ああ、ごめんおかしなこと言ってたわ。
「ごめん、夏が私をおかしくした」
両手で顔を覆い全てをシャットアウトする。生ぬるい手でも冷たく感じてしまうのはそういうことなのだろう。手の隙間から見える伊月君は机に突っ伏してくぐもった唸り声を上げていた
「……すごいな夏。俺もおかしくされた」
伊月君は今どんな顔をしているのだろう
胸の鼓動が速い。手を離せばいつの間にか日向君は自分の教室へと戻っていた。なんなら予鈴だって鳴っている
なんで私はこんなにもドキドキしているのだろうか、答えは分かる。夏のせいだ
夏が私をおかしくしたんだ
「忘れよう。冬まで」
「……そうだな」
お互いに笑い合った。リセットリセットと伊月君の頭を叩けば全く痛くないが同じように叩かれた。どうでもいいけど俺のノート返せよ。横からそう言われるまで私の胸は高鳴ったままだった
「あ!課題終わってない!!」
「俺のを見なかった報いだな」
何度だって言おう、
夏は人をおかしくする。
けれどもし、冬になってもおかしいままならば、
それは恋かもしれない