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小指の糸は、あなたのもとへ
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煌びやかな、遊女屋の集まる繁華街。
ある男は今宵もまた、飽きずにその吉原の門を潜る。
その男、重兵衛は、手招きをして誘う遊女達には目もくれず、決まって、吉原の端の隅にある、こじんまりとした遊女屋に立ち入った。
そして、その店の女達とも一切顔を合わせることなく、薄暗い店の奥へと踏み入ってゆく。
「お涼」
闇の中でなら、彼女を見つけることは容易だ。
仄かに光る提灯に、娘の色素の薄い肌と髪が照らされている。背を向けていても分かるその美しさに、思わず重兵衛は感嘆のため息を漏らす。
小さくこぼれたその吐息に、ようやく男の気配を察した娘は、短い髪を揺らして、背後をくるりと振り向いた。
「…あぁ、重兵衛。君か」
多方から光を受けて輝く小さな貴石か、夜空にか細く瞬く綺羅の星か、儚く散りゆく白の華か――。
佇まいも顔も、声すらも、全てが喩えようの無いほどの美しさだ。その娘は、重兵衛の顔を視界に捉えた途端、嬉しそうに頬を緩ませ、あどけない表情を浮かべた。
娘の名は、お涼。
お涼は今日日まで生きてこれたのがやっとというほど、幼少の頃から病弱で、か弱い娘だった。そのため、店で遊女として働くことは出来ず、ひとり部屋にこもり、ただ黙々と、雑用や掃除を行って、日々を過ごしていた。
「毎晩わざわざ、遠くから来てくれなくたって良いのに」
口に手を当て、小さく咳き込みながら、重兵衛に声を掛けるお涼。
薄紫の継ぎ接ぎだらけのぼろの着物を纏った華奢な体は、死人のように青白く、ふわりとした綿のような癖っ毛の髪も、若くして白一色に染められている。顔も整っており大層美しかったが、その生気の無い姿はまるで晩年の老人を思わせた。
「すまないね、重兵衛。悪いけれど、今日も、君の相手はできそうにない」
心許ない足取りで、お涼は重兵衛の傍らに歩み寄ると、客として君を悦ばせるようなことは出来ない。と、いつものように彼に告げた。
そしてその言葉に、重兵衛も、いつもの通りに、端的に返す。
「構わん。此処には、その為に来ている訳ではない」
ただ一言、お前に逢いたかった、と。
表情ひとつ変えず、こともなげに続ける重兵衛。
その言葉は、お涼の白い頬を、ぽつぽつと紅潮させた。
「…君はほんとうに、変わっているよ」
「真実を述べたまでだ」
半ば呆れ気味に呟いてから、お茶でも淹れてくるよ、とお涼は言い、重兵衛とともに廊下を進み、その一番奥にある、小さな自室へと彼を案内した。
*
「もうじき、桜の花が咲く頃だねぇ」
卓袱台に腹を向けて 胡座をかく重兵衛の斜め手前で、中腰になり、ふたつの湯呑みに茶を注ぎながら、お涼は、他愛のない世間話を始める。
冷たい部屋の壁には、鉄製の格子のつけられた、牢獄のような窓がひとつだけ取り付けられている。そこからは、店の通りに立ち並ぶ桜の木はひとつも見えず、隣の遊女屋の壁だけが覗いていた。
「ここからでは見えんな」
「あぁ。桜どころか、外の景色も見えない」
不満そうにぼやきながら、湯呑みを両手で持ち、生ぬるい茶を啜り飲むお涼。
お涼だけでなく、ここら一体の遊女達は、一歩でも遊女屋から出る事を禁止されていた。爛れた生活から抜け出したい一心で行く先も考えず逃げる者や、客の男と恋に落ち、駆け落ちしようとする者が後を絶たないのだ。
遊女達は、桜を愛でることはおろか、夜空を眺めることも出来ず、日夜男達の慰み者となるしかない。
「僕はまだ、良いんだけどね」
姐さん達は、心身共に疲れ果て、日々を心底辛い想いをして過ごしているだろう。と、目を細め、壁だけしかない窓の先を見つめながら、ぽつりと言葉をこぼすお涼。
かすかな明かりその苦しげな横顔に、重兵衛は彼女の心情を察し、話題を変える。
「俺の前でくらい、女らしくしてみたらどうだ」
「あ。…あぁ、すまないね。つい癖で」
あっけらかんとした様子で、私、だね。と、お涼は一人称を正す。
髪を短く切り、膨らんだ胸を包帯で抑え隠し、店に住み込みで働いているお涼は、普段は従業員の“男”として、生活していた。
以前、店の奥まで入ってきた酔っ払い客に襲われかけたことがあったためである。
店の遊女に負けず劣らずの美貌を持ち合わせた彼女だ。見かけた男は放ってはおかないだろう。男だと偽って生きている今でも、まれにその色香に惑わされた客達に「男でも構わない」と言わしめるほどだ。
だが、その中で唯一、この男、重兵衛だけは、彼女に手を出すような真似はしなかった。
「君の前でなら僕は、女らしく振る舞うことができるね」
細い指先をくるめて口に当てて、鈴のように高い声で、ころころと笑い声をもらすお涼。
そこをまた、“僕”と言っている、と重兵衛に指摘されると、もう面倒だからいいや。と開き直り、お涼は愛らしく、薄紫に染まる唇を綻ばせた。
弧を描くお涼の唇を見つめながら、重兵衛は、ふと声を上げる。
「寒いのか?」
「…え、何だい、急に」
また突拍子も無く話を変える重兵衛。何を思ったか、その場をのそのそと立ち上がり、手前に居たお涼の傍らに腰を掛け、彼女の肩を自身のもとに抱き寄せた。
肩を抱いていない、空いているもう片方の手を彼女の顔に向かわせ、口が青いぞ。と言い、その太い親指で唇をなぞる。中指と薬指は顎を持ち上げ、人差し指は、優しく彼女の頬を撫でていた。
「優しいね、重兵衛。」
肩に置かれた重兵衛のその大きな手に触れ、お涼は、銀の睫毛の伸びた双眸を伏せる。
「でも、たまに僕は、君がとても怖ろしく感じるよ」
それは予想外の言葉だった。重兵衛は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、何故だ。とお涼に尋ねた。
この、美形と言うには程遠い、鬼のような恐ろしい形相の所為か。それともこの、女子の腕などいともたやすく折ってしまいそうなほどの、いかつい体躯と太い手足の所為か。それともはたまた、別の何かが原因か?
重兵衛は顔に焦りの色を浮かべながら、お涼に詰問する。
そんな重兵衛の姿を見て、お涼は声を押し殺しながら、くすくすと笑んだ。
それを見た重兵衛は、次はその、素の“鬼のような形相”をむっとしかめて、不服そうに彼女に尋ねる。
「何が可笑しい」
「いやぁ、ね」
ふだん決して表情を崩さない重兵衛が慌てふためくさまが愉快だった、というのもあるが。
斯様に必死になるほど、この男は自分のことを好いてくれているのか、と思うとね。
お涼はそう言ってから、笑みと共にこぼれた涙を拭い、先刻の重兵衛の言葉に、ようやくいらえを返した。
「違うんだよ。ほら、吉原に来るような男の人って、何だかぎらぎらしていて、女好きで、みんながみんなというわけじゃないけど、酒乱で、欲望に忠実だろう」
「俺も、お前の目にはそう映っているのか」
「いいや。逆だよ」
君からは、欲がひとつも感じられなくて。と、お涼は続ける。
「人間らしくなくて、なんでこの人は、何もできない役立たずな僕なんかに尽くしてくれてるんだろう、って、怖くて」
店に無駄銭を払い、女を抱くことも、豪勢な食事に口をつけることもせず、ただ彼女と共に過ごし、夜を明かす重兵衛。かれこれ、何日、何ヶ月、何年になるだろう。
毎晩のように、いや実際、毎晩重兵衛は、この遊女屋に通っている。
彼は一体、お涼にいくらの金を積んだのだろうか。
「したいとは、思わないの?」
お涼の鋭い眼光が、重兵衛を射抜く。
その純真な黒色の炯眼に見据えられ、重兵衛は、疚しいことはひとつも腹に隠していないというのに、額に冷や汗を垂らしてしまう。
そして ついに参ってしまったのか、重兵衛は彼女の身体から手を離し、その険しい面構えに似合わず、小さく、そして震えた低い声色で、彼女にこう吐露した。
「そんな真似、お前に出来ん」
「何故?」
遊女や花魁っていうのは、そういうことをするためにあるものなんじゃないのかい、と首を傾げるお涼。
それに、そういう事ではないのだ、と、重兵衛はいらえを返す。
実のところ、重兵衛も、お涼が重兵衛を恐れているように、お涼の事を内心で恐れていた。
彼女は、胴も腕も脚も首も、重兵衛の半分よりも細く、弱々しい。ひどく華奢で、痩せ細っている。
そんな彼女に、自分のような不器用な者が容易く触れてしまったら、地に落ちた硝子玉のように、たちまち亀裂が入り、粉々に砕けて壊れてしまいそうで。
重兵衛は、その光景を夢にまで見てしまうほど、彼女の脆さを恐ろしいと感じていた。
「もしお前が壊れてしまったら、俺は」
その言葉の続きは、無かった。
床の畳をただ見つめながら、黙り込む重兵衛。胡座をかく脚の上に置かれた握り拳は、小刻みに震えている。
お涼は、そんな彼の手に、再び手を添え、角張るその手の甲に、唇を落とした。
「ならば重兵衛。僕からの願いだ」
僕を、暖めてくれ。
そう言って、お涼は軽く咳き込みながら、おもむろにぼろの着物の帯を解き、服を胸あたりまで下ろして肩まで体を晒け出した。
深い闇の中に、お涼の白い肌が更に映える。
重兵衛はそれに気付くと、ぎょっと目を丸め、全て服を脱いでしまおうといそいそと立ち上がる彼女を慌てて諌めた。
「何をしている、お涼」
「これくらい、どうってことないさ。それと、早とちりしないでおくれ。別に“する”つもりはないからね」
ただ純粋に、君の肌に触れたい。
君のぬくもりを、抱いてみたいんだ。
そうこぼし、お涼の口から、次は大きな咳があふれだした。それに喫驚し、慌てて重兵衛は彼女の柔い体を抱こうとするが、やはり遠慮しているのか、その大きな手が彼女の肌に直に触れることはない。
早くしてくれないと、凍えてしまうよ。と、お涼は重兵衛に囁く。闇の空虚へ舞ったその声は、重兵衛の耳朶をすり抜け、隣の客間の喧噪の中へと消えていった。
そう言われては、仕方がない。重兵衛はその言葉に応えるため、意を決し、お涼の腕を手繰り、自分の元へと引き寄せようとする。だが、まだ恐れているのか、腕を掴んだ手はなかなか動かない。
そんな重兵衛に痺れを切らしてか、しばらくしてから、お涼は自ら、彼の胸の中へと音もなく飛び込んで行った。
かすかな衣擦れの音のあと、暫し呆然としていた重兵衛が、咽喉を上下させ、震えた声で彼女に声を掛ける。
「大丈夫か、お涼」
「平気」
重兵衛よりも幾分か小さなお涼のその身は、彼の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
まだ躊躇しているのか、重兵衛はそれ以降も、自分からはお涼を強く抱こうとはしなかった。
お涼はというと、重兵衛の胸元に顔をうずめたまま、催促をするように 背に細い手を滑らせ、縋りつくように彼の体を抱いていた。
それに応えるため、重兵衛の腕も、彼女の肩にようやく触れる。
「あぁ。君の手は、暖かいね。」
君の手のひらに包まれると、とても穏やかな気持ちになれるよ。お涼はそう言葉をこぼし、ほっと頬を綻ばせた。
その笑顔は重兵衛の目には映らなかったが、言葉だけは、しっかりと重兵衛の耳朶へと届く。
すると重兵衛は、ようやく踏ん切りがついたのか、片方の手で彼女の手を強く握ると、負けじとお涼のその想いに応えた。
「お前の手は、冷たい。だがとても心地が良い。熱の籠った俺の手を、程よく冷ましてくれる。」
冷たいお涼の指先の一本一本を、親指から順になぞり、重兵衛は身を屈め、彼女の耳元でそう告げる。
太く、熱の籠もった重兵衛の指と、細く、冷ややかなお涼の指先。互いを求めあうように複雑に絡み合い、ふたつのその指は、次第に同じ温度へと変わってゆく。
暫くすると、重兵衛の指は、お涼の小指に辿り着く。最も細く、容易く折れてしまいそうな、白く冷たい小指。ささやかながらも重兵衛の熱を求め、彼を招くように震えていた。
そして重兵衛の指がその小指を捕まえようとすると、お涼はそれを遮るようにふいに顔を上げて、重兵衛に突然語り始める。
「そうだ、重兵衛。君は、運命の紅い糸の話を知っているかい?」
自身の指で重兵衛の小指を小突きながら、お涼は尋ねる。それに重兵衛は、首を傾げ、暫く考え込んでから、知らん。とだけ、ぶっきらぼうに彼女へ返した。
君、こういう話には本当に疎いねぇ。と言ってから、両の手の小指を掲げ、お涼は、新しく得た知識を子が親にひけらかすように、嬉々とした様子で、饒舌に語り始めた。
「将来結ばれる二人は生まれた時から決まっていて、見えない糸で繋がっているんだって。」
遊女屋の姐さんたちが言っていた、と、話の語尾に付け加えるお涼。
そのような、人の視覚では捉えられないものを、一体どうして存在すると分かったのか、理由は分からない。
畢竟、こんなもの、幽霊や妖などと同じ、単なる御伽話や夢物語のひとつなのだろう。その場限りの話になる筈だった、誰かの口から不意に飛び出した、そんな程度の、与太話だ。
だが、もしもそれが真実だとするならば。
男女が惹き合わされるのは、偶然や勘違いからなどではなく、必然的な事であり、生まれたはなから決まっていた“定め”であるとするならば。
なんと夢のような話だろうか。
「そんなできた話があるか?」
「まぁまぁ。そんなことを言わないでおくれよ、重兵衛。」
女子というものは幾年になっても、夢を見たい生き物なんだよ、とお涼は目を伏せながら説教するように重兵衛に語り、また瞼を開くと、頭上の彼を見上げてから、無邪気にふと微笑んだ。
運命の殿方と出逢い、結ばれ、想いを遂げる。そんな幸せな夢。世には、色恋沙汰に興味のないような女性も居るのだろうが、その夢は、この現を生きる全ての女性の理想だろう。
「僕たちはどうなんだろうね、重兵衛。」
お涼は、微かに開いた唇からそんな問い掛けをこぼして、再び重兵衛の手の甲に触れる。
「桎梏の鉄鎖など必要ない。その代わりにこの小指に、君の小指の先につながる、運命の紅緒が、ほしい」
もし繋がっていなくても、先が途切れていても、無理矢理にでも結わえて。
そのお涼の言葉は、静かに、夜の闇に溶けて消えて行った。
そしてその願いを重兵衛はしっかりと聞き入れたが、それに返事をすることは無かった。
重兵衛には、自分達が決して結ばれないことも、無理にでも結べないことも、知っていたのだ。
重兵衛も、駆け落ちしたい一心だった。出来ることならば、お涼を無理にでも連れ出し、どこか遠くの、江戸から離れた田舎にでも逃げ出したいと思っていた。
だが彼女は病弱だ。無理に動けば体に障る。長距離を走りさるくことなど出来ないし、何日間も野宿し遠くへ逃げ続ける事など、もっと出来る訳もない。
今はただ、この閨で、静かに、平穏に、ただ日々を暮らすことだけ。それが、重兵衛とお涼が、最も長い間、二人きりで過ごせる、唯一で確実な方法なのだ。
廊下の向こうは、客と遊女達の笑い声で溢れ、この部屋とは対照的にひどく囂しい。
お涼は、その喧騒を聞かなかったことにして、重兵衛の言葉を待つが、やはり重兵衛は、お涼の言葉に応えることは無かった。
「僕が女でなければ、また別の未来があったのかもしれないね」
僕が女だったのが、間違いだったのかもしれない。と、お涼は痺れを切らし、重兵衛に話を始める。
すると重兵衛もようやく口を開き、ぼそっとした囁き声のような声で、その話に相槌を打とうとした。
「…だが、男では、」
「女同士だって、違う種族だって、違う階級の人間同士にだって、愛は芽生えるんだよ」
姐さん達の中にも、そういう人はいるから。と、お涼は部屋の扉を見つめながら呟く。
同性同士ではまた別の問題が出てくると思うが、お涼は自分が遊女でなければ、こんな場所に閉じ込められる必要は無かったと言いたいのだろうか。
「そもそも、僕と君の間柄は、恋人でなくても良かったんだよ。」
盃を交わした友垣でも、血を分けた兄弟でも、親子でも、上司と部下でも。どんな形でも、良かった。
僕はきみのそばで、日々を歩みたかった。
お涼は、そう言葉をこぼし、ぎゅっと彼の服の裾を掴んだ。
ひとつ屋根の下で暮らし、朝餉から夕餉まで共にし、同じ床で眠りに就き、時には口論をして、仲直りをして。
ただそれだけの、なんともない日常を、繰り返していたかった。
「君の、…君のそばに、いたい」
何かを言葉にするのを一瞬だけためらって、お涼は、そう囁く。
お涼の肩が、息をするたび、小さく上下した。
重兵衛はその虫の息のような小さな吐息を確認すると、彼女の肩を、今度は強く抱いて、ゆっくりと自分の胸元に引き寄せた。
その途中、重兵衛とお涼の視線がふと交差する。
お涼の透き通った眼に見つめられ、重兵衛は思わず、その純真な瞳に、つい目を奪われてしまう。
まるで時が止まったような、奇妙な錯覚に陥った。
廊下の手前から漏れる仄かな明かりを頼りに、重兵衛はただ、お涼のその美しい顔を、己の瞳に映す。
そしてお涼もまた、重兵衛の素顔を、その純真な瞳の瞼の裏に焼き付ける。
騒ぎ声も、床の軋む音も、夜風の音も、それに吹かれる桜の花の音も、何も聞こえぬ、静寂の時。
時とは、儚く、残酷で、それでいて美しい。
二人には、眼前に広がる永遠の暗闇と互いの顔が、どの貴石よりも、晴れ渡った青空よりも、丘から見下ろした江戸の街並みよりも、道に立ち並ぶ桜よりも――何よりも、美しく見えた。
だがその永遠は、男、重兵衛自身の言葉によって、壊されてしまう。
「暫く、此処には来れなくなる」
その一言で、二人は刹那の内に、現実世界へと引き戻される。
静寂を打ち破ったその重兵衛の言葉に、お涼はどこか悔しそうに唇をきゅっと噤み、そうか。と、さも興味が無さげに、そっぽを向きながら返した。
そして重兵衛の胸板を、細い腕で突き飛ばすように叩き、お涼は密着させていた肌と肌を離す。ぬくもりが離れていくのを感じながら、重兵衛は寂しげに、お涼の名を呼ぶ。
「お涼」
「何だい重兵衛。さびしくなるね、とでも言って甘えて欲しかったの?」
「違う。俺はただ」
「これ以上、僕ばかりに何を言わせるつもりなんだい、重兵衛」
不機嫌そうに、ぎゅうと拳を握り締めるお涼。そのお涼の目尻から、微かな光を受けて煌めく何かが溢れ、頬をゆっくりと伝い、床の畳へこぼれていったのを、重兵衛が見逃す事はなかった。
着物の袖でそれを拭い、必死にお涼は、重兵衛から顔を隠そうとする。
「待ってるだけじゃ、君に悪いから。何も出来ないけれど、僕もここで一生懸命働いて、頑張るよ。」
喉の奥からこみ上げる何かを押さえ、必死に涙を堪えるお涼のその姿は、とても哀れに、そして強かに、何よりも美しいものとして、重兵衛の瞳に映るのだった。
そして今日も夜は更けてゆく。
重兵衛は、お涼と、余分な金を店に置いて行き、本業が始まったばかりの吉原遊郭から立ち去った。
繁華街を出てもなお、その手には彼女の暖かさがまだ残っているように、重兵衛は感じる。
ささやかな幸福とぬくもりの残滓を抱え、重兵衛は静かに、いつか消え行ってしまいそうな彼女の事を想いながら、これまで幾度も繰り返してきた通り、家路を辿るのだった。
彼女との別れは、一体いつ来るのだろう。黄泉の使者は、一体いつ彼女の前に現れるのだろうか。
重兵衛は、ただそれだけを、浅い眠りの中ただひたすら考えていた。
そしてその別れは、重兵衛が思っていたよりも早く、唐突にやってくる。
仕事中。部下から重兵衛の元に、ある報せが届いた。
あの遊女屋の娘が、病に倒れ、亡くなってしまった、と。
重兵衛が仕事に時間を取られている間に、お涼は、床に伏せてぽっくりと逝ってしまったのだ。
詳細は知らされなかった。持病が悪化して、衰弱死してしまったのだろうか。まさか、部屋の中に押し入ってきた客に強姦されでもして、性病を遷されたのだろうか。何者かに殺されたのか。
重兵衛の頭の中を様々な憶測が飛んだが、じきにそれらも、彼女を失った悲しみに押しつぶされ、頭の隅へと消えていった。
時の流れとは、無情である。
その突然の別れは、重兵衛に、涙を流す暇さえ与えてはくれなかった。
「あぁ、お偉いさん。わざわざ来てくれて悪いねぇ」
かつてお涼の棲んでいた遊女屋の前。そこで働く男が、昼間から店の前に顔を出し、軽い様子で重兵衛の話に受け答える。
仕事終わりに重兵衛が慌てて駆け付けた昼間の繁華街の景色は、夜中とは正反対で、軒を連ねる遊女屋も静まり返っており、落ち着いた気品ある雰囲気に包まれていた。
だが重兵衛はそんなことには微塵も気付かず、ただ店の男に、お涼の事を尋ねた。
「…あの遊女の、墓、は」
「あぁ。最初は、寺の共同墓地に持ってこうと思ったんだけどねぇ」
店の男は、遊女屋の道のそばに立つ 立派な桜の木の下に、重兵衛を嚮導した。
そしてその根元に男はしゃがみ込み、地面から出た根をぽんぽんと軽く叩いた。
重兵衛の視界には、墓らしきものは見つからない。
まさか、と重兵衛は、地面にぱっと視線を移した。
「あいつが死に際にどうしてもって言うから、ここの木の下に埋めてやったんだ」
生前、お涼が見たがっていた、桜。
もう花は全て散っており、代わりに木の枝には、町のそこらじゅうに溢れ返る、見慣れた青い葉が茂っていた。薄桃色の愛らしい花弁は、萎びて地面にこびり付いてしまっている。
その下に、彼女は、重兵衛の想い人は、眠っているのだという。
あの日のあの晩に、無理にでも遊女屋から連れ出して、月を背景に夜桜を見せてやれば良かった、と、重兵衛は思う。
あの晩はよく晴れていて、月も星も綺麗だった。
それに飾られた夜の桜は、さぞ、美しかっただろう。
「…わざわざ悪かったな」
重兵衛は、男にそれだけ礼を言い、早々に来た道を引き返して行こうとした。が、その直後、待てと先程の店の男に不意に呼び止められ、すぐにその場に足を止める。
男は、まだ話していない事がある、と、重兵衛を自分の方に向き直らせた。
「お涼があんたに、伝えたかった言葉が」
それは彼女の死後、ひとづてに、ようやく、一番に捧げたかった男の元へと届けられた。
たった一言の、この世に溢れ返る、ありふれた言葉。
だがそれは、重兵衛が最も、お涼の口から聞きたかった言葉であり、同時に、その言葉は、重兵衛が、他の誰でもない、彼女へと、捧げたかった言葉だった。
重兵衛はそれに応えることもなく、ただ男に礼を言い、桜の木の前を立ち去っていった。
*
男は、今日もまた吉原の門を潜り、手招きをして誘う遊女達には目もくれず、決まって、ある遊女屋の前に立ち寄る。
そして店の前に咲いた美しい桜の木の前に立ち、散りゆくその花の儚さを、褒め称える。
「美しい花だ」
ひどくやつれた顔で、それでも男は、笑う。
そして、一番地面に近い枝に、ゆっくりと手を伸ばした。
「最期まで、お前に言えなかったな。」
いつもそうだった。男は、女に対して、美しい、と賞賛の言葉を並べ立てるだけだった。
一度もあの言葉を、彼女に言うことは、なかった。
その模糊とした不確かな想いは、いくら言葉に表そうとも、体で示そうとも、伝わらない。
果たして彼女に、男の言葉は、届いていただろうか。
「だが俺には、お前の想いは、しっかりと届いた」
男はそれだけを告げると、桜の木に背を向け、踵を返し、道の砂利を音を鳴らして踏みながら、来た道をゆっくりと、しっかりとした足取りで歩いて戻って行った。
男の小指に結われていた紅い糸が、桜の花弁に合わせて、風に揺れる。
揺られる桜の木の枝には、今年もまた、誰かと誰かを繋ぐ、細い紅緒が結われていた。
終