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イシュヴァール
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雨は嫌いだ。
あのすべてをかき消すザーザーという音はまるで偏頭痛の様な感覚を私に与える。
そして昔の悪夢を蘇らせるのだ__。
イシュヴァール。
私にはその言葉が全てだった。
生まれた時からイシュヴァラの為に生き、イシュヴァラの為に死ねと教えられてきた。それが私、イシュヴァルの娘の生きる意味。証。
イシュヴァールの巫女としての私の価値だった。
ドォォォオンッと地鳴りに似た大きな音が辺りに響く。その音と共に部屋の壁がミシミシと震えた。
硝子なんてとうに割れてしまい、枠しか残っていない窓から見えるのは立ち上る黒煙と焦げ臭いにおい。
これはまだ私がイシュヴァールの巫女となって間もない頃の記憶。後にイシュヴァール殲滅戦と呼ばれる事になるアメストリスとイシュヴァールの戦争の記憶。
「巫女。近くまでアメストリスの軍が近付いて来ています。そろそろここを離れるべきかと」
イシュヴァラを描いた壁画の前。祈るように手を組んだ私の背に、武僧の一人が報告にやってくる。
私達イシュヴァールの武僧の兵站(へいたん)は我らが仕える神を祀る寺院だった。最初は各村を拠点にしていたけれど、次々に崩されて行き最終行き着いた先がこの寺院だったのだ。
それでもこの寺院は壊滅という言葉が似合う程壊されていた。アメストリス軍が攻めてきた時、一番に目をつけたのがここだった。きっと彼らは私達の神を破壊する事で戦意を削ごうとしたのだろう。それは反対に反感を買う事になったのだけれど。
村は壊され、村人だけではなく戦える武僧達の犠牲も半数以上に登っていた。私達は撤退か反抗か、岐路に立たされていた。
「……貴方は逃げて下さい。この内戦の結果はもう目に見えています。これ以上の戦いは無意味です」
「巫女はどうなさるおつもりか」
報告にきた武僧とは別の男が問う。私はそれに淡々と「ここに残ります」と返した。
「そんなっ、そんな事が出来るはずが無い! 私達が囮になります。巫女はその間にお逃げください!」
「貴女はイシュヴァラの巫女。貴女を守る事が我らの任務です。生きる希望だ。どうか貴女だけでも……」
「……巫女。そんなものが今何の役にたつというのですか?」
ぽつりと返した言葉に彼らが口を噤む。
「私を守る為に何人の同胞が犠牲になったのですか。もういいでしょう? 貴方達がこれ以上傷付く必要はない。アメストリスとてこれ以上の仲間の犠牲は望んでいないはずです。私が投降すればきっと貴方達は逃げられる。この戦いも終結するはずです」
否、敵が望むのはきっと長の首なんかじゃない。きっと彼らが行おうとしているのはイシュヴァールの壊滅。徹底的な殲滅だろう。
それだけは許さない。それだけはさせてはならない。
「最後の命令です。私はここに残ります。貴方達は逃げなさい。逃げる事は罪じゃない。そう……これはイシュヴァラの思し召し。ご慈悲です」
それだけ言うと私はまた彼らに背を向け壁画へと手を合わせ頭を垂れた。
暫く彼らは私を見ていた。けれど、一人、また一人とその場を去る足音が聞こえる。
そう、それでいい。誰も彼も死にたくはない。家族がいる、愛する人がいるのだ彼らにも。
私が彼らを愛する様に__。
祈りを捧げどれくらい経っただろう。建物の外から聞こえる爆音がどんどん近付いてくる。同じく人の叫び声も。
逃げた彼らがその声の主じゃない事だけを祈った。静かに、ただそこで。
ふいにその音が止んだ。
辺りを包む静寂と焦げる様な臭い。そして。
「手をあげ、振り向け」
低い、低い声。
仲間の者ではない。どこかで聞いた覚えのある声だった。
そう、あれは……。
「やはりこの爆発は貴方だったのね。焔の錬金術師殿」
声の指示に従わず、そのまま手を合わせたまま返す。
「この戦いに軍が国家錬金術師を投入したと報告を受けていました。だからきっと貴方もいると思っていたけれど」
「それはそっくりそのままお返ししようイシュヴァラの姫巫女殿。先日我が国の安寧を祈ってくれた貴女が敵対する武僧を率いる長だとは……実際に会うまでは信用できなかったが」
「残念ながら今は私一人です。私を守っていた武僧達はいません。殺すなら……さっさとなさってはいかがか」
背中に感じる威圧感。指先一つでも動かせばきっと私は彼の生む焔にこの身を一瞬にして紅く染め上げられるだろう。
でもそれでもよいと思った。
私一人の犠牲でこの戦いが終わるなら。
もう、遅いのかもしれないけれど……。
「……巫女よ。ひとつ聞かせて欲しい」
「私が答えられることがあるなら」
ぴん、と張り詰めた威圧感はそのままに、静かにかけられた言葉。それに私も静かに返した。
「何故貴女は戦うのだ」
「何故?」
「そんな幼き身で。人の死を見るなどあってはならないそんな幼き身で。戦場など……立ってはならないそんな身で」
問われた言葉に、私はクスリと笑い声を上げることで返す。その私の態度に不思議そうな彼の声。
「何がおかしい」
「だって、今こんな状況で聞かれるとは思わなかったんだもの」
すぐにでも私の息の根を止める準備が出来ているくせに。それなのにそんな言葉、あなたらしくもない。いや、これが彼なのだろうか。ロイ・マスタングという人間なのかしら。
「では貴方は何故戦うのですか?」
「質問を質問で返すのは育ちの悪い者がする事ですよ巫女」
「それが答えです」
「その質問が?」
ええ、と頷けば彼は少し考える様に瞳で空を仰いだ。
「貴方は誰の為に戦うのですか? 仲間、親、国の為。それとも恋人?」
「それは……国と答えるべきかな。軍の人間としては」
本心ではないがね、とおどける彼に私はもう1度クスクスと笑った。
「私は大切な人の為……守りたい人がいる。だから戦います。貴方も……そうでしょう?」
私はこの故郷が好きだ。仲間が好きだ。
だからもう誰も死んで欲しくないの。もう、こんな戦い終わらせたい。
「勝敗は決しました。私を殺せばこの戦いは終結する。私の首を持って貴方の軍の大将に差し出せばいい。簡単な事でしょう」
「……それなら君こそ私を殺せば何万との仲間の敵がうてるが?」
その言葉に、ハッと振り返った私の視界に映ったのは煤にまみれ所々ほつれた青い軍服。そしてそれとは不釣り合いな夜の帷の様な綺麗な黒い瞳。
仲間の、敵。
この男が、仲間の敵。
でも。
ふと視線を逸らした先。距離は……おおよそ300mか。瓦礫とかした建物の隙間から見える鈍色の鉄は間違いなく私に向けられていた。
私がここから1歩でも動けばきっとあそこにいる人が私の頭なり心臓なり貫く。あそこだけじゃない、ロイ・マスタングの背にある寺院への入口。外れかけたドアの影にも一人気配がある。
囲まれているのだ、既に。
「殺すならご自分の手を汚されたどう? 部下に引金をひかす前に。それともそれが貴方のやり方なのですか?」
そらした視線を目の前の彼へと戻す。前の彼は何も手にしていなかった。先程まで感じていた威圧感も、肌を刺すような熱さも感じない。
殺気もなく立つ彼に「何のつもりですか」と声を震わした。
「貴方は私を殺しに来たのでしょう? なのに何故……」
「殺気のない相手に牙を向けるほど、私はバカ犬ではないのだよ巫女」
カツン、革靴が瓦礫を踏む。
1歩、また1歩と私の方へと歩んでくると目の前で膝をつく。
近付くお互いの視線。
「私は貴女を殺しに来たのではない」
「え……?」
「この戦地から離脱させる。……ついてきて頂けますね__?」