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終に絆される話
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マンションの扉に鍵をさして、またかと思う。ノブを回せばやはりすでに鍵は開いていて玄関先には見慣れた赤いスニーカーが転がっていた。春先には新品だったそれも一年経つと随分くたびれてくるらしく、次の誕生日はスニーカーかなぁなんて考えながら、ヒールを脱ぐついでに好き勝手な方向を向いたスニーカーを揃えた。玄関へ足をかけるより先に、玄関と部屋を隔てる扉が開いていつもの笑顔がにこにことわたしに向けられる。
「なまえちゃーん、おかえりー」
「ただいま、章吉また来てたの」
当たり前みたいに一人暮らしであるはずの部屋でわたしを迎える従兄弟の章吉は、現在二回生だ。事あるごとに集まる親戚たちの中で育ってきた子供世代は親世代と同じように仲が良く、特に章吉は本当に小さな頃からわたしになついていた。下に三人も弟妹がいて家ではお兄ちゃんをしている分、甘えられる年上の存在は大きかったのかも知れない。
わたしの一家は千葉に住んでいて、親戚で集まる時にしか会わなかったけれど、親戚同士で集まると章吉はいつもわたしの隣にいた。自転車を始めた小学生の頃。最初はうまくいかずに、いつもは勝気な瞳を二人きりになるとこっそり濡らしていたのが懐かしい。
中学生になってからは小学生の頃のように手を繋いだりは流石にしなくなったものの、彼は大学生になった今も相変わらずでわたしに懐いている。
「だってなまえちゃんちのがワイの部屋より大学近いねんもん。」
彼の部屋も大学まで30分ほどの場所にあるのだが、終電を逃したある日に大学から10分圏内のこの部屋に上げてからはまた泊まってええ?の言葉通り帰りが遅くなった日や朝が特別早い日にこうしてわたしのマンションを訪れては泊まって、翌朝この部屋から登校してゆく。もしもの場合の合鍵の隠し場所を知っている彼が、仕事帰りのわたしを出迎えるのももはや、珍しいことではなくなった。
「もー、しょうがないなぁ。」
いつもこうなっては、一応形だけのため息をつく。親戚の中では珍しく一人っ子で兄弟が羨ましかったわたしも、なんだかんだで彼に甘いのだ。
こうして、宿を提供すると彼はお礼にといかにも男の子らしい夕飯を作ってくれる。育ち盛りの妹弟たちに囲まれる彼が意外にも馴れた手つきでフライパンを握るのは微笑ましい。わたしは彼の作る焼きそばが好きで、彼もそれを知っていてわたしの部屋に中華麺の入った袋片手に来る日もあった。わたしの従兄弟は、本当によくわたしを見ていた。
「章吉さ、彼女とか作んないの」
夕食の食器も片付けられたテーブルで、お風呂上がりのしめっ気が残る髪のままぼんやりチャンネルを回していた彼に話しかけるも、んー、となおざりな返事のみで彼の視線はどんどん変わる画面に注がれたままだった。
「自転車一筋でここまで来ちゃったもんねー、で、ここでこんなことしてるから尚更出来ないし」
一方的に話しかけながら、昨日の帰りに買ってきた缶を開ける。期間限定のスパークリングワインは、ジュースみたいな甘い香りがする。
問いかけには合って無いような返事だったくせに目敏くちょーだい、と伸びてきた手をひょいと避けて、彼の隣へ腰を下ろす。二人がけのソファに、まさかいまもこうして頻繁に彼と座るとは思わなかった。高校の時はまだしも、大学に入ったらきっと彼女とかさっさと作っちゃって、足も遠のくと思っていたのにわたしたちの距離感は相変わらずどちらかが少し足を開けば膝が触れる近さのままだ。
「もー、変な背伸びしないのー。誕生日になったらね、乾杯しようね」
元来根が真面目な彼が、19の今律儀にアルコール類を口にしないのは知っていて、その彼が手を伸ばしたのもただの背伸びだとわかっている。変に大人ぶる必要なんてないのに、男の子とはそういうものだろうか。
「…そういうなまえちゃんかて、彼氏、大学のあいつ以来おらんやんけ」
少しむすくれたような横顔でこちらを見ずに言った彼の口から、まさか二年も前に付き合っていた人の話題が今更出るとは思わなかった。同じ学科の同回と半年ほど付き合っていた期間は確かにあって、わたしに彼氏がいる間は変な誤解が生まれないよう章吉と二人で会うことはなかった気がする。彼も高校生だったし、連絡はよくあったもののこうして泊りに来ることはなかった。彼が初めて泊りに来たのはわたしが社会人になって、彼が大学に入ってしばらくしてから。当時の彼氏と別れて後からだった。誰かさんがこうやって来るからかもね、と冗談めかして言うと、つまらなそうにリモコンをいじり続けていた指が止まった。
「…やっぱ欲しいん、彼氏とか。」
「どうかなー。まあ、いた方が寂しくはないかも。張り合っていうかさ」
少し回り始めた酔いに、手のひらが熱くて握った缶が鮮明に冷たい。彼がこちらへ視線を向けるのを尻目に、やっとチャンネルの定まったテレビ画面へと目をやりながら細長いアルミ缶を傾けた。こういうお酒は一口目が一番甘くて、後からアルコールが主張してくる。お酒を飲んでいるんだな、と改めて感じて、別に酔いたくて飲んでいる訳ではないことを思い出す。今日は多分、手持ち無沙汰な人の煙草と同じ理由だ。こうして、どうしても生まれてしまう空白を誤魔化すために、わたしはお酒に口をつける。彼の、この視線をまともに受けてはいけないことをきちんとわたしはわかっていたから、はぐらかすための理由が必要だった。
彼の気持ちに、ずっと気付いていないわけではなかった。それはずっとずっと昔から、少女漫画も顔負けの一途さで傾けられたものだった。気付いたのはわたしが高校を卒業する頃だっただろうか。彼の瞳が誰を見ているのかも、その視線の理由も、遅まきながらに気付いて、それと同時に同じ視線を今迄ずっと向けられ続けていたことを理解した。その時はもっと身近にいっぱいいるだろうに、と思いながらも知ったからと言ってわたしがあえて態度を変えることはなかった。いきなりおざなりな態度を取れるほど彼の存在もわたしの中で軽薄なものではなかったから、わたしは仲のいい親戚のお姉さんのままでいた。どうせ、高校にでもなったら彼女でも出来るだろうと思っていたし、わたしに彼氏が出来たときは、これで彼にも踏ん切りがつくだろうと思っていた。甘かった。彼は元来、とても一途でよそ見が出来ず、真っ直ぐな熱情を持った人で、それが恋愛面にも影響するとは、思っていなかった。彼の中の男を、見くびっていた。
わたしに彼氏が出来てから、彼はあえて邪魔をするような事はなかったが注がれる視線の熱がほどかれる事はなかった。好きな人がだれかと付き合っているのを知っていて、それでも変わらずその人を見つめ続けるなんて痛みを伴うこと、わたしなら出来ない。だれかを恋するその人を思い続けられるほど、人は強くない。だのに彼はそれをやってのけてしまって、別れてからは彼なりに距離を、詰めてきた。
「ワイ来るやん、寂しないやろ」
「それとこれとは別ですー」
困っていた。彼が、どうしたら他に目を向けてくれるのかもう万策尽きていて、今更彼を遠ざけるにも機会を見失ってしまった。下手に、仲のいい親戚のお姉さんをやり続けてきたから、今更冷たくすることも出来ずにずるずる後回しにして、後回しにしたままわたしはやっぱりお姉さんをやり続けている。
彼の一途さに申し訳ないほど、わたしはずるかった。
最初に、きっぱり線を引かなかったのはかわいい従兄弟との仲を壊すようなことをしたくなかったからに他ならない。そうしたらわたしが別れたのをスタートラインに、そのかわいい従兄弟が本気でわたしに手を伸ばし始めた。年上のわたしはいつもわたしに懐いてきたかわいい従兄弟なんて上手くかわせる筈だったのに、今の体たらくはなんだろう。
わたしが思っていたよりも、彼はかわいい従兄弟で留まってなどいなかった。普段、寄って来るときはかわいい従兄弟のカードを捨てずにいるから、彼がかわいい従兄弟で居続ける限りわたしは親戚のお姉さんで接しなければならない。そうでなければ、わたしも親戚のお姉さんだから、君を男の子としてなんて見ていませんよ、というポーズを取れなくなってしまう。そうしてすぐ隣まで寄ってきた彼はこうして不意に、従兄弟の顔を止めて、もう一歩あと一歩と、距離を詰めてくる。かわいい従兄弟だった筈の彼は、考えていたよりもずっと抜かりなく、わたしに想いを向けるようになっていた。
わたしは大人だから、従兄弟で、4つの差がある、ということが壁であることを認識している。彼を男の子としてなんて見たら、ややこしい事にしかならないことも分かっている。それが最初から分かっているから、意地でもそういう気持ちが生まれないようにするつもりだった。親戚のお姉さんのまま、わたしはそれを崩さないように崩されないように、しなければならなかった。出来ないなら、彼を突き放さなければならなかった。なのに、わたしは彼を突き放せない。突き放したくないと思うところまで心の距離を許してしまって、そのまま、距離を詰められては焦って後ろにさがるのだ。追い詰められている感覚には、目を瞑って。
「なまえちゃんが、わざわざ別にしようとしてるだけやろ」
こつ、と膝同士が触れる。身体の一部が触れて、それを自然に流せる雰囲気に逆回し出来るほどわたしは上手ではなかった。それをもっと早く、自覚しておくべきだった。
彼の手が、わたしの両手からまだ三分の一ほど中身の残ったアルミ缶を抜き取る。
「なまえちゃん、そろそろこっち見てや」
あ、やばいな、と三分の二のアルコールを取った頭でぼんやりと思った。きちんと見つめあったら、押し勝てる自信などとうに無い。こんなにも弱ってきている自制心が、彼の頑として動かない意思に勝てる筈がなかった。
わたしが彼を、男の人として認めてしまったら、終わりだ。いつからか、無理矢理自分の意識を引き戻しているのを悟られたら、多分もう、彼は遠慮なんてしなくなってこちらを伺いながら距離を詰めるなんてしなくなって、一気に掴まれてしまう。だから、いつものようにやんわりと煙に巻かなければならない。上手いこと言い抜けなければ、とは頭で考えてもそこから先になかなか頭が回らなくて、アルコールに、頭がくらくらした。はぐらかす為に口をつけていたのに、完全に、呑まれた。
「ワイはずっとずっとなまえちゃんだけ見とるのに。ええ加減、辛いわ。」
伸びてきた手が頬に触れて、内心ぎくりとする。また一歩、詰められた。章吉は、目がいつも真っ直ぐだ。まつげは長い。綺麗な目だ。ああ、お酒飲んじゃうと、感情が色んなことを先行してしまうのが人間の、悲しい性だ。
触れられたまま逃げないわたしに、章吉が息を呑む気配がした。そういうとこ、まだ、全然初々しい。
「…もし、これから先もずっと、ワイに一ミリも可能性ないんやったら、いま拒否してな」
そう、ひとつ決め事をしてから一呼吸のち。彼は覚悟を決めたように腕をわたしの背中と腰に回して隣から抱き寄せる。ぐっと近くなった距離で、彼を見つめた。真っ赤で、余裕なんてない。可能性がないなら拒否してくれと自分から言ったのに、突っぱねられるかもしれない次の瞬間を怖れているのが手に取るようにわかった。抱き寄せられた胸の鼓動は、心配になるくらい早くて強い。伺うようにわたしを少し見つめて、何もせずに見上げるわたしを確認してから、そっと彼が瞳をおろす。それに合わせて目をつむれば少し間を置いて、ふ、と唇が重なった。彼の唇は酔っているわたしに負けず劣らず熱くて、男の人らしく少しざらついていて、わたしがいまキスをしているこの子に男を感じるには十分すぎた。ああ、もう、いいや。彼が男の人になったなら、わたしが女になってもそれは定められた道理に従っただけだ。彼の背中に手をまわす。抱き寄せて、初めて彼の体躯が思っていたよりずっとがっしりしているのに驚いた。平気で部屋に上げてきたけど改めて考えてみたら、これに組み伏せられたらひとたまりもなかったな。なのに、わたしが腕を回したことに対して重ねた唇から伝わって来る程の動揺をする。こんなにも男の人になっているのに、そのバランスの取れていない成長がなんだか可笑しくて愛おしかった。
そのままもう少し深く唇を重ねて、それも受け入れるわたしを確認してから彼は少し名残惜しげに口づけを解いた。抱き寄せた腕はそのまま、わたしに視線を落とす。
「可能性ないんやったら、拒否してて言うたで」
「そうだね」
「ならこれは、なまえちゃん、ワイは喜んでええんやん、な?」
恐る恐る、ひとつずつ確認を取っていく彼。抱き寄せられてあんなふうに口づけてしまったらもう、わたしだって後戻りできないところまで気持ちが来てしまっている。
「…うん」
小さく頷いた瞬間、ぎゅうっと強く抱きしめられた。力加減とかが吹き飛んだ、子供みたいな抱擁。 甘い雰囲気を作るよりも感情でぶつかってくるあたりが章吉らしくて、ついやっぱり年上の気分が抜けずによしよしと背中を撫でる。
「ちっさい頃からずっと好きやったんやで」
「知ってたよ」
「どうやったらなまえちゃんにそういう風に見てもらえるんかずっと考えてたし」
「うん」
「なまえちゃんが他のやつと付き合うとる間、ワイのがなまえちゃんのこと知っとるしもっと大事に出来るのにってずっと悔しかった」
わたしを抱きすくめたまま、章吉があんまりまっすぐ気持ちを語るのでくすぐったくなって冗談半分、じゃあ大事にしてね、と笑う。わたしは彼ほど素直ではない。こんなふうに綺麗に慕情を傾けられると誤魔化したくなってしまう一般的な大人だ。だからこそ、変わらない彼のひたむきさが美しくて、愛おしい。
雰囲気を誤魔化したはずだったのに、腕を緩めてじっとわたしを見つめる章吉の瞳にまた、どこか澄んで甘い雰囲気に陥る。彼の頬はまだ赤い。だがそのあどけなさと裏腹に見つめる目は強くて、こちらをどきりとさせる。そんなドラマのヒーローみたいな表情をどこで覚えてきたのだろう。不覚にも、かっこいい。
「一生めっちゃ大事にする」
「まって気が早いよ」
「ワイがどれだけ長く片想いしてきたと思とるん」
なにをどう誤魔化そうと思っても、無駄だった。彼の言葉一つ一つにどきりとして、頬が熱い。ついに黙りこくったわたしを見つめていた章吉が、わたしを呼ぶ。その声が優しくて、ああ、好きだ、とぼんやり思った。
「もっかいちゅーしてええ?」
また手が頬に触れる。触れ方が、彼に似つかわしくないほど優しい。
「好きにしていいよ」
暖められてゆく感情に任せて口をついた言葉にぎくっと、彼の身体に緊張が走った。わかりやすいひと。彼は本当に裏表がなくて、だから今迄ずっと向けられてきた気持ちもずっとずっとわかりやすくて、こんなに好きになるなら、もっと早く受け入れてあげればよかった。
「え、え、どしたん?なまえちゃん?酔った?」
「酔ってるけど、でも、好きだよ、いままでごめんね章吉。すごく好き。わかってたのにずっと無視してたの。怖かったの、だってわたし年上で、従兄弟で、だからずっと好きにならないようにして、好きなの、認めないようにして、ごめんね」
ああ、いつから泣き上戸になったのか。後から後から溢れてくる言葉と一緒にいつの間にかぽろぽろ涙がこぼれていく。焦ったように目元をぬぐってくれる指のせわしい動きさえ、なんだかもう愛しくて泣きやめそうにない。
「まじか。泣かんといて。ワイめっっちゃ嬉しいで?ほら、両想いやで?やからな、な?泣かんといて」
もはやどっちが年上かわからない。狼狽しながらもわたしをあやすように頭を撫でてくれる章吉に、精一杯頷く。彼を見上げる。好き、とつぶやく。その間も頬を涙が流れていって、章吉が、あー…と頭を抱えた。次の瞬間、ぐるん、と世界が反転する。天井の代わりに、わたしに馬乗りになった章吉が見えた。
「せ、せえへんからな!!さっきも言うやろ?!大事にするって。くっそー、乗せられへんで。けど、ちゅーはするから。いまはちゅーしかせえへんから。なまえちゃん泣き止むまでするからな。」
そう宣言した章吉は、わたしの頭を抱えて覆い被さる。彼の匂いがした。好きだと一度認めてしまえば素直になれるのがわかって、明日から今迄の分ちゃんと伝えていこうと何度も何度もキスされながら思う。結局泣き止んでも触れる唇は変わらなくて、そのうち恐る恐る唇に舌が触れて、受け入れた。答えながら脚を絡めて背中に腕を回す。いまはもう、どっちに余裕が残っているのか、皆目わからなかった。
結局わたしも、ばかみたいに好きだった。