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だから、せめて笑顔で
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晴れていた。
まるでおれたちの出航を待ちわびるかのような雲一つない夜明け前の空に、ただ、唇を噛み締めた。
あと数時間、日の出とともに、おれたちはこの島を発つ。
出航準備はほぼ終わり、あとは時間を待って錨を上げるだけだった。
今日出航することは、レンには伝えていない。
伝えたところでどうしようもないからだ。
断られるのが怖くて一緒に来るかとも訊けないし、見送りに来られても後ろ髪を引かれるだけだ。
どうしろというんだ。
何も云わずに消えるしかねぇじゃねぇか。
いつの間にか握り締めていた拳がふと痛んだ。
見ると、どうやら爪が食い込んでいたようで血が滲んでいた。
赤い血。
赤。
この色をみて思い出すのは、まずレンの顔だった。
一番最初、まだなんとも思っていなかったおれがレンの手を握ったとき、レンは面白いくらい顔を真っ赤にしたんだっけ。
面白がって恋人繋ぎなんてしてみたら、ますます赤くなって俯いて、あのときはそのまま顔から火を噴くんじゃないかと思った。
迷路のような路地に迷って、レンの働く本屋にたどり着いたのがそもそもの始まりだった。
それが、1ヶ月前のこと。
もう随分昔のことにも思えるし、ついさっきのことにも思える。
レン。
口にはせず、心の中で小さく呟く。
レン、レン。
別れの時はもうすぐそこだった。
日の出まで、一刻もない。
「サッチ」
振り返らなくともわかる。
マルコだ。
なんだよ、と不機嫌に返せば、ため息が聞こえた。
イライラする。
ただでさえブルーなところに、なんなんだこのクソパイナップルは。
振り返って睨みつけようとして、ぽかんとした。
「…なんで全員集合」
背後には、おれ以外の全隊長が勢揃いしていた。
なんだこれ。
え、ひょっとしておれ今からボコられる感じ?
いくらおれでも、隊長全員から攻撃されたら生きてる自信ないんですけど。
「親父から伝言」
「…あ? 親父?」
代表はやはりマルコらしい。
腕組みをして、いつも通り偉そうだった。
ややイラッとするが、親父からの伝言と云われては聞くしかないだろう。
首を傾げながら顎をしゃくって先を促すと、何故かジョズが進み出てきた。
なんだ。
え、何これ。
なんでおれ、むんずと襟首つかまれたの。
「ちょ、おま、ジョズ?」
「『けじめくらいつけてこい』、だとよい」
「…は……」
何が、とは云えなかった。
口を開こうとする前に、ジョズに思いっきり放り投げられていたからだ。
べしゃり、と惨めに落ちたのは陸だ。
あたりどころが悪くて死んだらどうしてくれる。
と思ったが、悪態をつく気力はなかった。
地面。
陸。
この島には、レンがいる。
この島にしか、レンはいない。
戻った船の上に、レンはいないのだ。
そう思ったら、駆けだしていた。
行かなければならない。
レンのところへ。
恨み言も泣き言も、全部帰ってきてからだ。
* * * * *
息が荒い。
肩で息をするなんて、と思いつつ、これは単に疲れているわけではないから仕方ないのだ。
緊張。
強敵と対峙したときだって、きっとこんなに緊張しない。
目の前にはドアがある。
この1ヶ月、通ったドア。
レンの働く本屋。
レンの部屋はこの店の裏手にあり、通りからはこのドアを通るしかないのだが、考えてみればまだ夜明け前だ。
当然ながら、店は閉まっている。
簡易ながら鍵もあるので、かけてあるだろう。
くそ。
せっかく来たのに、こんなのありかよ。
思わず拳をドアに叩きつけると、キャッ、と中から声がした。
聞き間違いだろうか。
いや、そんなはずはない。
おれがレンの声を聞き間違えるはずがない。
いるのだろうか。
まさか、こんな時間に。
はやる気持ちを抑えて慌ただしくノックをすると、中でパタパタと走る音が聞こえた。
間違いない。
レンがいる。
そして数秒後、かちゃり、と鍵がはずれる音。
キィ、とドアが開いた。
「…サッチさん」
「レン」
レンだ。
寝間着にストールを羽織ったレンが、立っていた。
驚きに目を見開いている。
「ど、どうしたんです?こんな時間に…」
「お前こそなんで…」
「わ、私は…その」
ちょっと眠れなくて、と笑う。
普段だったらそれでもベッドに入ってろ、とでも云うところだが、今日はありがたかった。
よかった。
今だけ神様とやらに感謝しよう。
「あ、お、お茶! お茶いれますね、寒いでしょ…」
「レン」
中に招き入れようとするレンを遮って名前を呼ぶ。
すると、レンは小さく息をのんで、一度おれの目を見てから、逸らした。
ああ、と気付く。
きっとレンも、感じていたのだろう。
確実に訪れる別れを。
そして、悟ったに違いない。
これが、最後だと。
「…レン、おれは」
「…はい」
云わなければ。
なのに、怖い。
怖くて云えない。
「おれは…」
目を閉じる。
脳裏を、1ヶ月の出来事が過ぎ去る。
楽しかった。
幸せだった。
これまでの人生のなかで、もっとも輝かしい時間だったと胸を張って云える。
惜しむらくは、この幸せを続けられない自分の選択。
しかしそれ自体を後悔しているわけではない。
この選択は最善だ。
ただ、最良でないだけで。
息を吸う。
ゆっくり吐き出して、意を決する。
おれはここに、そのために来たのだから。
「…おれは、今日発つ」
「………」
「…別れを云いに来たんだ」
「…はい」
口にしてみれば、やけにあっさりとしていた。
一体何を躊躇していたのかと思うほど、簡単だった。
レンは俯いたままだった。
長い前髪が眼鏡にかかり、奥の目を隠した。
掻き上げたくなる衝動をなんとか堪え、代わりに拳を握り締める。
これで、終わり。
終わりなのだ。
島から出ないと決めたレンと、海の上にしか生きる場所のないおれがともに歩む道はない。
星の数ほどいる人間の中で、出逢えただけでも奇跡なのだ。
これ以上など。
望むなんて、それは傲慢だ。
わかっている。
わかっているから。
せめて、最後くらいは。
「…サッチさん」
「…ん?」
レンがゆっくりと顔を上げる。
もしかしたら泣いているかもしれないと思ったが、違っていた。
レンは、笑っていた。
満面の笑みではない。
自惚れてもいいなら、泣きそうな、けれどそれを懸命に堪えている笑顔だった。
―――ズキン。
痛んだのは握り締めた拳ではなく、この胸だ。
「…この1ヶ月、すごく楽しかったです」
「…おれもだよ」
「…本当に、楽しかった…」
「…レン…」
いっそ、泣いてくれたらよかった。
そうしたら、なりふり構わず抱き締めて、泣くなと慰められたのに。
けれどレンは泣かなかった。
泣きそうな顔で、泣かなかった。
「…ありがとうございました」
「…おれも」
「…いつ出航ですか?」
「…日の出と同時の予定だ」
「じゃあ…もうすぐですね」
「ああ…」
「………」
「………」
沈黙。
そして。
「…太陽が」
「…ああ」
別れのときだった。
予定の変更はありえない。
もしおれがこのまま戻らなくとも、船は予定通り出航するはずだ。
しかしおれは、戻るのだ。
おれの居場所は、あの船の上だから。
これ以上は、ここにはいられない。
「レン」
「サッチさん」
名前を呼んだのは、同時だった。
一瞬きょとんとしてから、また同時に噴き出した。
ああ、大丈夫。
おれもレンも、笑えるから。
大丈夫だ。
大丈夫。
手を差し出した。
その手にレンが触れる。
暖かかった。
きっとおれはこの先ずっと、この温もりを忘れないだろう。
レンの手は、とても優しい手だった。
「さよなら」
「元気で」
漸く口にした別れの言葉。
ゆっくりと離れた手に、冷たい風が痛かった。
ドアに背を向け、船に向かう。
一度も振り返らなかった。
ドアの閉まる音がした。
その瞬間、おれは走った。
涙を流した最後の記憶は、随分前のことだったが、今記憶は更新された。
船に戻る前には止まることを祈って、おれは声を上げて泣いた。
レン、レン。
おれは、お前を一生忘れないと誓う。
―――お前を、愛してる。
* * * * *
別れなんて今までうんざりするほど経験してきたのに、どうして今、こんなにも胸が痛いのだろう。
サッチさん。
不思議な人。
こんな辺鄙な本屋に、迷ってたどり着いたのが出会いだった。
ときどきすごく失礼だけど、私のことを真っ直ぐにみてくれる優しい人だった。
楽しかった。
幸せだった。
けれどもう、お別れ。
何故か眠れなくて、起き出してお店でぼんやりしていたらドアが殴られた。
びっくりして悲鳴を上げると、少ししてノックが聞こえた。
こんな時間に、一体誰が。
疑問に思ったけれど、とある予感がしていた。
きっと、サッチさんだ。
そして予想は外れなかった。
肩で息をしたサッチさんが、そこにいた。
会いたくないはずはないのに、胸がざわついた。
そして告げられたのは、案の定別れ。
泣きたかった。
けれどそれを堪えたのは、サッチさんを困らせるのがわかっていたから。
サッチさんは優しいから、私なんかでも泣いたらすごく困ってしまうだろう。
だから、感謝の言葉だけを、絞り出した。
本心は告げないと決めていた。
私はこの島にしか居場所がないから。
自由に生きるサッチさんの、傍など望めるはずもない。
さよなら。
ちゃんと、云えた。
握手まで出来た。
ごつごつして大きくて、優しいサッチさんの手。
私は生涯、この暖かさを忘れない。
離れた手に冷たい風が吹き付け、凍えるように寒かった。
踵を返したサッチさんが、振り返ることはなかった。
ドアを閉めた瞬間、堪えていた涙が溢れ出した。
唇を噛み締め嗚咽を堪えながら、遠ざかる足音に耳を澄ます。
無音になったのを確かめ、私は声を上げて泣いた。
行かないでという言葉を飲み込んで、私は、張り裂けそうに痛む胸を押さえつけた。
サッチさん、サッチさん。
私は、あなたを一生忘れないと誓います。
―――あなたを、愛しています。
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実らないこの想いに、どんな名前をつければよかったんだろう。
20111108 from Canada
20180402 再掲