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ひらり、と。
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軽い羽根のように歩く妖精さんが
すっかり暗くなった夜、
店に舞い戻ってきた。
21時の閉店まであと30分。
名前を聞きわすれてました、と
妖精さんが言う。
「…朔」
「さく?」
好奇心がきらきら溢れる瞳で
彼女はわたしを覗きこむ。
「どんな字をかきますか?」
「さかのぼる<遡>の、しんにょうをとるの」
こんな説明で直ぐ解るひとはとても少ない。
…あぁ!と妖精さんがつぶやく。
「月のはじめ生まれ、または……新月?」
驚いた。
「どうしてそんなに物知りなの?」
「『月』についての資料を、
いろいろ読んだことがあって……」
整った唇から、
また不思議な答えが返ってきた。
薔薇の資料、月の資料。
そんなのを読むなんてどんなお仕事?
…やっぱり妖精さんに違いない。
たとえばそれが
『百貨店上半期の売上について』だったり
『株価情報』であってはならない。
「…わたしだけ名乗るの……?」
あっ、と彼女の顔がすこし赤くなる。
急に男の子みたいな表情になる。
「失礼しました……サユミです」
「綺麗な名前」
「朔、も素敵」
名乗りあったら、なんとなく
流れる空気が親しくなった。
「朔さん、でいいですか」
「朔、でじゅうぶん」
「……会ったばかりでも?」
「海外が長くて」
すこし考えているふう。
まじめな妖精さん。
「ふふ、じゃあ、朔。
もう、片付けの時間でしょう?」
「あ、そうね。そろそろ……」
「手伝います」
「え?」
不思議なお客様……サユミは
腕まくりをして、
よいしょっ、なんて言いながら
鉢を集めてくれている。
「細い腕でそんな……重いでしょう?
わたしは慣れているから、
中で好きなお花でも見ていて、ね?」
「細いっていったら、朔だって。」
「……でも、力は強いの」
「わたしも鍛えてるんで」
……引かない……。
なんでこんなところで
ふたりで力自慢してるのかしら?
と、思わず笑ってしまう。
サユミも笑ってる。
こうして話していると
ふんわり軽くなる自分の心に気付く。
こんな気持ちは、ひさしぶり。
1番重い鉢を引っ張ろうとして
ちょっとバランスを崩したら
すっと手が伸びてきて支えられた。
「………」
「朔、あぶない」
「あ、りがとう………」
そのまま、するりと彼女の手は
わたしの袖口に触れる。
「これは、なに?」
「え………」
汚く変色している腕の、痣。
隠しているつもりだったけど。
咄嗟に考える。
『優しくてオペラが好きな
コッカコウムイン、の夫は
ごく稀に突然、
殴ったり蹴ったりするの』などと、
この美しいフォルムを描く耳に入れたくない。
決して。
「…ひみつ」
「ふぅん、でも痛いでしょう。痣になってる」
「すこし」
サユミはわたしの手をとり、
汚く変色している肌を優しく撫でて
…そっと唇で触れた。
「おまじない、です。はやく治れ」
背の高い彼女が屈んでそうしたので、
上目遣いで見つめられる。
おもわず息をのむような視線。
「…なんでも…治りそうな、おまじないね」
「ほんとにそうならいいんだけど。……朔、」
「なに?」
「綺麗だね」
…ほんとにお花が大好きなのね。
「今度はどれ?もう閉店だし、好きなのをあげる」
「ほんと?」
「ふふ。どうぞ、薔薇でもカメリアでも」
「じゃあ朔を」
「…え?」
まっすぐにわたしを見て言うサユミは
くっきり輪郭をもっていて。
そうか、妖精のように見えるけど
現実の、生身のひとなんだ、と思った。
「綺麗って言ったの、朔のことだから」
「サユミは……冒険したいの?」
「そういうんじゃ、ない…」
短く清潔に切り揃えられた爪。
白い輝くような肌。
意思の強そうな瞳。
わたしのこころはわたしのもの。
だから、いいわ。寄り道して帰っても。
「じゃあ、お茶でも……、
飲みに行きましょう。サユミ」
ぱっ、と明るくなる表情にみとれながら
わたしはいつのまにか
不思議の国に1歩、踏み出してしまう。