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来たる日
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ゴオオォ…
霧に覆われた視界、空に浮かぶビルや屋根、看板や車…それが組み合わさったり千切れて行ったりを繰り返し。その度に悲鳴と命の潰れる音がする。
まさに地獄だと、誰かが言ったろう。
集団パニックによる集団火事場泥棒が起こるよりも先に、この街は死人と怪我人で溢れかえってしまった。
ビルの上半分が吹き飛んだその丁度境目のフロアで、
倒れていた女性の背から手を放して男は立ち上がり。
フロアのNo smokingの看板をチラリと一瞥してから、禁煙なんて意味をなさないと言うように煙草に火をつける。
『日付けがわからないのが難点だったな…』
ため息と共に紫煙を吐き出しながら、宙空を舞う瓦礫や車を眺める彼は質の良い三つ揃えのスーツに身を包んだエリートといった風貌だった。
カチャリと眼鏡のフレーム位置を直す仕草も様になる。
「う…ぅ…」
『目が覚めたか…』
「なに、が…私…」
フロアに倒れていた女性の呻き声に男は視線を向ける。女性の衣服や周囲は真っ赤だが、破れた隙間から覗く肌は怪我もなく綺麗なままだ。
『動かない方がいい…治したが、肋骨が折れて外に飛び出した上内臓にも損傷を与えていたからな…かなりの量失血してる』
「な…な、なんで…」
男が口にした怪我などまるで最初からなかったかのような自身の体の変化に、女性本人も戸惑っている。
だが同時に[事実である]と女性は確信していた。
瓦礫の下敷きになった時の痛み、血を吐いて、腹に走る激痛にやっとで探った手に触れた自分の腹から突き出しているであろうもの。その感触、生々しい痛みと浮かんだ死という恐怖。
あれは幻覚や、夢ではない。
確かな痛みと恐怖で…現実であった。
ならば、その傷が治っているということも現実?
女性が貧血でクラクラする頭を頭上へ向ける。
空に漂うのはどこかのビル[だったもの]
車、人、巨大な看板、モニュメント、ヘリコプター
[普通]空に浮かぶことなんてないものばかりが浮かんで、時たま轟音と共にどこかで別のビルと接触している。
あり得ない現実では、あり得ない奇跡も起きるものだと、女性は信じる事にした。
「あり、がと…あ、なたは…」
『…さぁ、好きに想像してくれ』
そう言って煙草を吸う男の横顔は美しかった。
「てん、し?」
『そんな御大層なものじゃない…それより俺はまだ仕事があるんで失礼する』
「あ…」
言い終わるや否や、男はビルから飛び降りた。
自殺、その二文字が一瞬浮かんだが。
そうでないことも分かっていた、あり得ないことが立て続けに起こるのなら…きっと彼も生きているのだろう。
ゆっくりと身体をずらし、血に濡れていない床に身を横たえた女性は、男に助けてもらった感謝を胸に救助を待とうと目を閉じた。
このNYが霧に包まれてから既に5時間
最初は小さな物が浮上するだけに留まっていたが。今では何でもかんでも宙を舞っている。
何が原因かもわからない、警察も救急も軍すら役に立ちはしない中で、外には異形の化け物もうろついているのだ…皆怯えて無事な建物に篭り、じっと過ぎ去るのだけを祈っている。
そんな中建物に銀の鎖を渡して駆ける男が一人。
宙を舞う建物が擦れる音が響き、時たま悲鳴のする不気味なほど静まり返ったこの[元]NYで、男は息のある人間を見つけては治療して回っていた。
『どこかに救急隊はいないのか…』
手に持ったスマホでNYの元の地図と照らし合わせながら。ビルとビルを、時に車へと縄梯子のように繋いだ銀の鎖の上を駆け、たまに空に浮かぶ救急車を見つけて中を覗くが、当然ながら誰も居なかった。
いくら男が治癒の力を持っていても、複数人をいっぺんに救うことなど出来はしない。ましてや死んでしまった者を蘇生なんて出来はしないのだ。
せめて次の怪我人を治療する間の繋ぎだけでも良いのに、とは思ったが生きるか死ぬかの現状で誰かの為に危険に身を晒すなんて馬鹿は居やしなかった。
全ての人を救うなんて一人の人間には過ぎたこと。
人であるが故に、その手から溢れる命があることを彼はよく知って居た、故に悲観はしなかった。
ただ少し、切なくなっただけ。
『あと13時間ほどか…』
13時間それはこの悲惨な災害が終わるまでの時間。
住宅街も市街も、あちらこちらで落ちてきた瓦礫やガラスに潰された無残な死骸が横たわっている。
その死骸を異界から溢れた生物が食い散らかすというパニック映画のような光景が、今のNYで残り13時間も繰り広げられるのだ。
死体を漁る雑魚を狩るか、それともまだ息のある怪我人を救って回るか。
どちらを選んでも命を篩いにかけるような選択でしかない。
この時ばかりは男は己が今まで誰の手も借りず、一人で活動してきた事を悔いた。
しかし男はそれでも自分に出来得ることをしようと走り出す。怪我人を治癒し、安全な建物に運び。
死体を漁る化け物は始末して、遺品を近くの建物に集めたり、生き残りに渡しておく
ただその繰り返し、その繰り返しを13時間続けた。
後にこの大崩落を生き残った人々はこの男の事を[天使]だと口々に語ったという。
「彼は私が意識を取り戻すのを確認すると…ビルが浮かぶ空に消えていったの」
「死体を食ってた化け物を倒して、遺品を俺に渡したんだ…遺族は泣きながら感謝してた」
「魔法みたいに、すり傷が消えたの!ママの腕も綺麗になったの!」
「彼は天の御使に違いないわ」
「天使…ねぇ、そんなの居ると思うか?」
「わからない、しかし市民は嘘を言っているようには見えなかった」
荒廃した街を抜けつつも人々の安全と状況を確認してわかった事、それはどうやら[ヒーロー]がいるらしいという事で。それが人を救っているにせよ人間であるのかすらわからないと、車を運転する男はため息をついた。
「怪我人を救い、宙を舞うヒーロー、か…コミックスじゃあるまいし…」
「しかし君と私も人ならざる生き物の死骸を見た、この街にそれを成せる者がいたのは事実として認めざるを得ない。」
「わかってるさ…けど人じゃないかもしれない」
血界の眷属みたいに、と男は付け足してからチラリと自分の腕時計をみた。
「謎の霧に包まれてから17時間、未だに街の崩壊と再構築は終わらず…か」
『…あと、1時間と少し…』
この地獄が終わる時間
それまで
その男、アレクセイ・ディミトロフは街を駆けた。