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夢
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10歳の冬、クラスメイトのバレエの発表会ではじめは恋に落ちた。
それは隣の地区の小学校に通っている少女で、はじめの通う小学校でもよく名前を知られている有名人だった。
日本人のオリンピック選手が活躍し、度々マスコミに取り上げられるフィギュアスケート。その県大会で大人顔負けの演技をし、ジュニアの部で年上の選手たちに大差をつけて優勝したことで、昨年地元のテレビでその名を取り上げられたのだ。
まるで作り物のような整いすぎた顔立ちから近寄りがたい印象を10歳の時点で相手に抱かせる少女は、あっというまに人々に追われる存在となったのだ。
テニスクラブに通い、あまりテレビ番組をじっくり見ることのないはじめでも彼女の名前くらいは知っていた。
幼いながらも自分に好意を向けていると薄々気付いていたクラスメイトの女子の演技など視界には入らず、主役を演じる彼女に全ての感覚を奪われてしまったようだった。
フィギュアスケートだけでなく、バレエもあんなにできるなんて
何をやっても人よりできてしまう優等生のはじめが、初めて同い年の少女に抱いた尊敬の念はすぐに恋愛感情へと変わり、それからは積極的に彼女の情報を収集することになった。
しかし未だチャンバラ、ヒーローごっこをして駄菓子を食べる同世代に好きな女子がいるというのを話すのは少し照れくさく、それは両親に対しても同じで、結局彼女に会うタイミングも背中を押されるお節介もなく10ヶ月ほどがたった。
11歳。5年生の秋、あの少女がはじめの目の前に現れたのは地区運動会の会場だった。
テニススクールに通い、クラスの中でも運動能力が長けていたはじめが代表選手になるのはごく自然なことだった。
普段は観客席に当たるトラックを見渡せるその席は、学校ごとに区切られてはいるが、あまり大きくない会場だったためすぐ隣り合った席に別の学校の生徒が腰掛ける。
はじめの小学校では名前の頭文字順で並ぶため、「み」から始まる名字のはじめはたまたま端の席を割り当てられた。
隣の小学校はとくに決まりは無いようで、友人同士で好きな席に座って良いような雰囲気で和気あいあいとしている。
見ず知らずの他人のすぐ隣に座る事に抵抗感があるためか、はじめの隣の席はなかなか埋まらずに時間が経った。
1つ目の競技が始まった時、ようやくはじめの隣の席にパープルのバッグが置かれて、一応軽く挨拶でもしようと顔を上げると10ヶ月前に舞台の上で一際輝く一等星こと、のばらがいた。
「こんにちは」
自分の運の良さに若干浮かれながら声をかけたはじめに、のばらは視線、顔の順番にこちらへ向ける。そして町内会新聞の記事に写っていた時のような柔らかい笑顔で会釈をした。
バレエ、フィギュアスケートだけでなく体操などの地区大会でも好成績を出しているのばらは、ローカルテレビ番組、地域の新聞、インターネット記事に度々写真が掲載されるが、いつも髪を全て後ろにまとめていた。
しかし今はじめの目の前にいる彼女は艶のいい長い髪を垂らしている。その姿は小野小町や楊貴妃の生まれ変わりと言われても過言ではないような、あまりにも可憐な姿だった。
当然髪を結っていてもひときわ美しいのだが、髪を下ろしている彼女は、はじめにはまるで天女のようにさえ見える。
はじめは彼女がまさか半ばお遊びのような地区運動会の代表に選ばれるなんて、予想もしていなかった。
怪我でもしたらどうするんだというような若干の憤りもあったが、隣に座れる嬉しさや感動の方がはじめの心を支配していた。
「ボクは蔵王北小の観月です。夏のバレエコンクール、1位入賞おめでとうございます」
はじめの言葉にのばらはすでにトラックの方へ向かっていた視線を戻した。
「ありがとうございます。観月くんはバレエなんて見るの?」
「ええ。ボクは習ったりしていなのですが、バレエを鑑賞するのは好きです」
「ふふっ、周りに変わってるって言われない?」
「ヒーローごっこよりまともな趣味だと思いますよ」
演技ではない純粋なのばらの笑みに、まるで羽が生えて空を飛んでいるような気持ちになって、ドキドキと高鳴る胸に手のひらを乗せる。
それから少しだけバレエの話をして、のばらは高跳びに出場するからと言ってその場を去った。
はじめがわざわざテレビでも取り上げられたフィギュアスケートではなくバレエの話題を振り続けたのは、つい数日前に塾で彼女と同じフィギュアスケート教室に通う女子生徒ののばらに対する陰口を聞いたからだ。
――あのこはフィギュアをバレエのためって言ったんだよ。最低。負けたうちらのこと馬鹿にしてる。
フィギュアスケートのオリンピック選手を目指している人間が、それに活かすためにバレエや新体操、ダンスなどを習うことはよくある話だ。
のばらにとってはその順序が違った。それだけの話だ。
過去の新聞、地元紙のインタビュー欄でのばらは将来の夢について語っていた。
――将来の夢はなんですか?
''「世界で一番のプリンシパルになることです!」''
助走も、地面を蹴り空中へ放たれた瞬間も、最後にマットへ飛び込むその瞬間までのばらは洗練されていた。
また彼女の部屋に1位と書かれた表彰状と、嫉妬からくる非難の言葉が増えるのだろう。
はじめは誰よりも前を孤独に歩いていくその後ろ姿から目が離せなかった。