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ジゼルは幕を閉じた
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のばらは物心付いたときから望んでもいないのに異性から好かれることが多かった。
それは良いことであると、世の中ではそう思われることなのだろうがのばらにとってはむしろ恐ろしくてたまらない。
「名字さん、おはようございます」
「あ、観月くん。おはよう」
観月に倣うように、彼の後ろからひょっこりと顔を出した男子生徒たちが皆じっとのばらの目を見て「おはよう」の言葉を繰り返す。
平等に扱わねば、誰か一人を特別かのように接すればこの教室の中にある世界の均衡は崩れて、つらい思いをするのはのばら自身だ。
全員に名字と朝の挨拶の組み合わせを当てはめて発声する。事務的な作業だが慎重に、誤差が出ないように同じ声のトーンで同じように目を見て返事をする。
「名字さん」
不意に自分を呼ぶ女子の声に背中に冷たいものが流れ落ちる。
「おはよっ、今日も相変わらずの美人だねぇ」
良かった、と心の中で呟いて、男子生徒の中から現れたその女子生徒には1番の笑顔を見せた。
「おはよう。わあーっ今日も髪型すごく可愛いね。手先が起用でセンスもあるなんて憧れちゃうな」
そんなことないという否定をすれば嫌味と言われ、ありがとうと言えば自画自賛だと言われる。
それならば全く関係のない話をすべきであり、相手が自分よりも優れている部分を見つけて褒めるのが正解に近い。
優れている思うのは本音でもあるが、毎回誰にでもそういう態度を取り続けるのは正直疲れてしまう。
それでもそういう風に人付き合いをしなければならない理由がのばらにはあった。
――わたしはもうあの頃には戻りたくない
「でしょでしょ〜名字さんも今度結んであげるよ〜」
「嬉しい〜! ありがとう! 念入りに頭を綺麗に洗っとくね」
女子生徒と話していると自然に男子生徒がいなくなって安心する。だからといって男子生徒に嫌われればきっと怖い思いをするに違いない。
異性に好かれても迷惑なだけだから、みんなのように普通になりたい。誰にも注目されないで、ただ同じように笑って過ごすことができたらどれほど良いのだろう。
家庭科室へ移動を始める生徒たちとはあえて目を合わさない。のばらはいつも何か別のことをしているように見せかけている。
違う授業のノートを開いて外を見ていれば、あっという間に話好きの明るい生徒たちは廊下へ出ているのだ。
のばらは時々こうして透明人間になる。透明人間は嫌われない。好かれることもない。いや、好かれていてもそれに遭遇しなくて済むのだ。
ノートを閉じて、良いタイミングで教室を出て、傍から見て明らかに孤立をしないよう、誰かの視界の外を歩く。これがのばらの日常だ。
「名字さん」
廊下でまるで待ち伏せでもしていたかのように声をかける観月に、のばらは驚き飛び上がってしまいそうになるのをなんとか堪え、落としそうになった荷物をしっかりと持ち直した。
「み、観月くんか。びっくりしちゃった」
「驚かせてすみません。良かったら家庭科室までご一緒して頂いても?」
「……良いけど、どうしたの?」
「実はまだ場所を把握しきれていないんですよ」
どうしたの? というのはなぜ他のみんなと行かないのかという意味だった。
のばらは観月のことを嫌いとは思わない。他の男子生徒に比べて大人びて蠱惑的な美少年に、むしろ普通の女の子であったならキャッキャと騒いで友人らと囲んでいただろう。
――優しくて、綺麗で……本当に王子様みたい。
家庭科室の場所がわからないと言っていたのに、真横で道順を迷うことなく歩く観月にのばらはしまったと思った。
観月は本当は一人で家庭科室へ行けるのに、わざとのばらと行くことを選んだ。きっとわざわざ他の誘いを断り、待ってまで共に行く事を選んだのだ。
「名字さん、君はもしかしたら覚えていないかもしれませんが……ボクは一度、君に会ったことがあるんです」
のばらが観月の方へ顔を向けると、少し照れたように笑う観月と目があった。
全く覚えていないと言ったら嘘になるが、覚えていると言って過去の繋がりを肯定してしまったら――
少し考えただけでも、女子生徒たちの嫉妬に歪む顔が脳裏に蘇って嫌な気持ちになる。
いつもそうだ。いつものばらを不幸にするのは誰かの好意なのだ。
「観月くん、わたしバレエを辞めたの」
この答えは正解だろうか?
覚えているけれど、もう繋がっていない。観月を忘れていないという彼への肯定と、それでも繋がってはいないのだという明言。
「フィギュアスケートに転身されたんですよね」
まるですべて見透かされているようで、一瞬笑顔を崩してしまいそうになる。
「そう。フィギュアをやるために去年転校してきたの。だからバレエはもうおしまい」
「名字さんならフィギュアでも体操でも、他のどんなことだってきっと負けませんよ」
逃げ出しても逃げ出しても、何食わぬ顔で追いかけてくる観月にのばらは答えが見つからずただ笑うだけだった。
のばらはいつも全てに距離を置いている。
それでも詰めてくる観月のような人物はこの学校に来て初めてだった。
心に閉じ込めた雷鳴のような、嵐のような感情を曝け出したら彼はどんな顔をするのだろうか?
もしも彼がそれを受け入れてくれても、きっと周りがそれを許さない。
のばらの頭の中に一年前の記憶が蘇る。
「――さん、名字さん、どうかしましたか?」
「あっ、ううん、ちょっと、今日の授業のこと考えちゃった。わたし裁縫が下手なの」
「それならボクがお手伝いしますよ」
んふっと笑う彼にのばらもお礼を言って笑いかける。
遠く離れ、薄れていた記憶の一欠片、バレエコンクール。人生で一番輝いていた自分自身が薄れていくスポットライトの下、徐々に闇の中へ消えていくような気がした。
ジゼル第一幕。
それは嫉妬の物語