-
それは短調の回想
-
一年生、初秋。のばらはルドルフ学院へ転入した。
なんとか無理矢理浮かべた笑顔に、クラス中がざわめいてざわりと背筋に嫌な汗が流れる。
初めのうちはのばらに優しい目線を向けていた女子生徒たちだったが、それはある出来事が起こるたびに冷たいものに変わっていく。
「俺、名字さんのこと好きなんだよね」
「名字さん、好きです! 付き合ってください!」
「のばらちゃんさ、俺と付き合わない?」
「やっぱ好きだな、名字のこと」
「名字さん、俺の彼女になってください!」
「名字さん」
「名字」
「名字さん」「名字」「名字」「名字」
名字 名字 名字 名字 名字 名字 名字 ――
「ごめんね」
断っても、それが起きる前に逃げ出してもそれまで友達のように側にいてくれた男子生徒には気まずさ、逆恨みで避けられるようになり、女子生徒からは怨嗟の視線を送られる。
一年生の三学期、のばらのテーブルに一通の手紙が入れられていた。
悪がふるいにかけられる私立聖ルドルフ学院の生徒らしい丁寧な文字と慎重な言葉が綴られていた。
匿名でこんなお手紙をお送りするなんて大変失礼と存じますが、どうかお目をお通しください。名字さんにお願いがあります。あの人を返してほしいとは言いません。ただ、私の恋人だったあの人と教室で愛を深めるようなことは、ほんの少しでいいです、控えて頂けませんでしょうか? どうかお願い申し上げます。
「あのね、悪いけど、わたしにもう構わないでくれるかな」
誰かが泣きながら書いたであろう、ところどころ文字が丸く滲んだ手紙をポケットにしまい最近頻繁に側に寄ってくる男子生徒にそう告げると、のばらはとうとう一人になった。
「それまじかよ、美人なのに性格悪いんだな」
「あいつエンコーしてそう」
「金渡したら誰でも」
「脱いだらさ、胸あんのかな」
「えー、でもヤリマンの胸は」
のばらにとっては、女子生徒の言う泥棒猫やら最低やらは耐えられた。男子生徒による性的な発言が恐ろしく、恐怖で耳に焼き付いたように長い時間離れなかった。
観月にはその汚い言葉の内容ははっきりとは告げない。
「女の子が悲しむから男子を避けたの。そうしたら男子にはひどいことを言われて」
観月の目が、口が、表情が多きな衝撃を受けたように形を変えていた。
「だから、わたしの方からみんなともっと離れることにしたの。誰か一人を特別にはしないように、そして誰からも嫌われないように」
轟々という音を緩めて次第に電車が止まり、ドアが開く音が響く。
降車駅まではあと一駅だ。
「今のクラスは前よりも居やすいの。わたしはわたしのためにも、観月くんのことを好きな女の子たちのためにも、観月くんから離れたかったの」
「名字さん、それではきりがないと思いませんか。ボクにはもっといい案がありますよ」
大きな建物の群れの影へ入った車窓から光が絶えた。
陰る観月の顔は冷たく、それでもこの世で恐らく一番綺麗だ。
「恋人がいる君に近付く男はきっと少ない。少なくなれば、その分嫉妬されることも減るとは思いませんか。今僕の事を好いて下さる方は、まだ付き合いも浅いしきっと本気ではありませんよ」
観月は打算的で狡猾な一面を持ち合わせているのだと初めて気付いたのばらは、その根本にあるものは何なのだろうかと少し考えてやめる。
「観月くん、もしかしてだけどそれって」
「ボクと恋人同士のフリをしませんか」
観月には確信があるのだろうとのばらは気付いていた。
のばらには彼がどんな風に自分をどこまで想っているのかはわからないが、少なくとも観月は最初からのばらと関係を縮めようとしてきていた。今ならばのばらが断ることがないという確信を抱いている。
それはのばらも同じだった。観月は決してのばらを見て見ぬふりなどしない。必ず手を差し伸べてくれるという確信を抱いている。
相手の想いや優しさに漬け込むのばらとフリなどと言って自分の思い通りに事を進めた観月、どちらの方が打算的で狡猾で邪悪なのだろう。
「ボクは君を支えたい。全てから守りたい。もちろん、ボク自身も君に手を出したりはしません」
のばらは目を細める。悪としては自分の方が上だった。観月は狡猾だが彼の心は純粋そのものだ。
その愛情を認識しながら利用するのだから、どこまでも悪いのはのばらだ。
「観月くん、変わってるって言われない?」
「んふっ、ボクだってたまにはヒーローごっこもするんですよ」