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ボレロのように
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はじめの思い通りにならないことばかりが起きて、一緒に隣に並んで電車に乗っていたというのにのばらが痴漢に遭ってしまった。
湧き上がる怒りのまま、冷静さを欠いて相手を怒鳴りつけた自分の姿はさぞ醜かっただろう。彼女は怖いと思っただろうか?
さらにその後、のばらを慰めるつもりで薔薇の写真を見せたまでは良かったが、彼女に追い打ちをかけるように嫌な思い出を話させてしまった。
本来の計画ではまっすぐ最寄り駅まで戻り、駅の近くにあるアンティークな家具やイギリスやオーストリアから取り寄せた食器の美しいカフェに誘うはずだった。
暗く深刻な話も、先走った"交際のフリ"などという提案をするつもりもなく、ゆっくり時間をかけて振り向いてもらうつもりだった。
今日はほんの手始めに、二人で出かけるという思い出作りのはずだった。
何もかもあの薄汚い男のせいだ。中学生の女子に手を出すなんて頭のネジが抜けているどころか知性の欠片すら感じない。
「ああ、クソッ」
汚い言葉だ。こんな汚い言葉を発する自分すらも気に食わない。
果てのない怒りがこみ上げて、暴力でねじ伏せてきてもおかしくない未知の人間に立ち向かった恐怖と混ざり合い感情が混沌とする。
一緒にいたのに、ふと窓ガラスに映ったのばらの虚ろな顔が見えるまで気付かなかったことが不甲斐ない。情けない。
――いいや、何よりも
「フリとはなんだ、フリとは……一体どうしてあんなことを」
お気に入りのアロマを炊いてリラックスするつもりが、落ち着くと次から次へと思考が流れ込んできて余計に疲れる。
しかし、過去のことはもう変えられない。
フリであってものばらと恋人同士のような形になれるのだから、それは良い事だ。
たとえ卑怯な手を使ってでも交際したいという願望は持っていたので、それを受け入れてしまえば明日から幸福な日々が始まる。それがまがい物であっても。
弱っていたところに漬け込まれたのばらはどんな風に思っているのだろうか。
「まあ、ボク以外で彼女に釣り合うような人、少なくともクラスにはいませんしね」
なんとか納得をして明日の支度に取り掛かる。
納得さえしてしまえば後は喜びに舞い上がるだけだった。
「おはようございます、名字さん」
恋人らしい挨拶とはなんだろうかと一晩考えていたが、キザなセリフはいざとなると言葉にできなかった。
「おはよう、はじめくん」
はじめくん、はじめくん、はじめくん……
頭の中でエコーがかかる。まるでボレロのように何度も何度も繰り返していくうちに頭の中で大きくはっきり認識されていく。
あまりの衝撃に言葉が出てこず、にこにこと笑っているのばらを見ていると、いつもはじめの真似をしてでものばらに近付こうとしている連中が明らかに引き下がっていった。
「みんなもおはよう」
たたみかけるようにのばらが『みんな』とひとまとめにした生徒たちの中にあからさまな動揺が走り、失恋予報である彼女の言葉に数人の男子生徒が貼り付けたような笑顔で挨拶を返した。
「昨日はありがとう」
えへへと照れたように笑うのばらにはじめも我に返り、自然に見えるよう笑いかけると今度は女子が声を上げた。
「え〜っ、え〜っ、もしかして付き合い始めたの?」
「超お似合い! ベストカップルじゃん! おめでとお〜!」
「うそ、名字さん相手じゃ太刀打ちできないし〜」
「結婚式呼んでね!」
何故か嬉しそうにキャアキャアと騒ぐ女子が意外だと思ったのはのばらも同じだったようだ。
少し驚いたような顔をしてから両頬を手で覆い、本当に照れているのか「からかわないでよ〜」などと言って俯いた。
付き合うフリによる効果は観月の想像を凌駕していた。
むしろこれからはのばらを独り占めできるものと思ってしまっていたため、少し派手な女子のグループに引き込まれてコソコソといわゆる「恋バナ」をする彼女を微笑ましく見守ればいいのか、それとも置き去りにされたような悲しい顔をすれば良いのかわからなかった。
昼食の時間、ようやくはじめはのばらと二人きりになり、明らかに契約の主導権を握ったのばらの正面で彩りの美しいサラダを見つめていた。
「食べないの?」
「あ、いえ、えっと……いただきます」
「……はじめくん、今日いつもよりハンカチ派手だね」
「おや、よくわかりましたね。これはオーストリアのもので、先日取り寄せたものなんですよ」
「やっぱりわたしは詰めが甘いよね」
「何の話をしているんです?」
「交際を決めたその次に会う時って、普通は気合いを入れるものでしょう」
図星を突かれて一瞬咀嚼を止める。すぐに嚥下して紙ナプキンで口元を抑えて視線をのばらに向けると、急にまじまじ見られたことを不思議に思ったのか「どうしたの?」と頭を傾げた。
さらり、重力のままに先端を地面に向ける髪と黒目がちの目を改めて可愛いと思うはじめに、のばらは何度かぱちぱちとまばたきをして視線をテーブルに向ける。
のばらは考え込む時や照れている時にこうして俯くのだと気付いたはじめは、見つめすぎた事に気付いて気をそらすように食事を再開する。
午後の授業は体育だった。男子は外、女子は体育館で離れ離れの時間になった。
自分の見ていないところでのばらが何か嫌な目に合わされていないか不安に思い、足早に教室へ戻るとはじめの不安などまるで吹き消すかのように数人の女子生徒がのばらの席で盛り上がっていた。
「あー観月くん! 早く早く!」
「のばらちゃん、観月くんが来たよ!」
囃し立てられるように導かれて女子の輪に入ると、のばらの髪が先程までとは違う形になっていた。
編み込んだりねじったりした髪をところどころあえて少しほぐしてふわふわとまとまったハーフアップに、コードレスのカールアイロンで毛先をカールさせたのばらはまるで妖精や女神の類に見えた。
女子の手先の器用さ、その技術力の高さに驚いたのとのばらの圧倒的な可愛さに感想が出てこないはじめを、中心の女子生徒がからかうように笑う。
カールした毛先を指でつまみ、椅子に座ったままのばらは側に立って固まっている観月を控えめな笑顔で見上げた。
「似合わないかな」
「いえ、すみません。見惚れてしまいました」
素直に口にすると辺りが一瞬固まって、またキャーッと叫ぶように女子生徒が騒ぎ始める。
顔を赤くして俯くのばらにはじめは期待をしてしまう。
フリをこれからも続けられるのか?
それはいつまで?
いつか本当の恋人になれるだろうか。
甘い期待に胸を膨らませ、ただ今は優しげに微笑むだけだった。