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幕間
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秋だというのに真夏かと錯覚するような暑い日。
こんな日は資料保存のために低めの温度と湿度を一年中保っている博物館で涼むのがいい休日の過ごし方の一つだろうとのばらは考える。
しかし先日の一件から電車に乗りたくないという気持ちが強く、なかなか一歩踏み出すことができない。
寮の窓から外を見ると、チラホラと部活を終えた部員が寮に歩いてくるのが見えた。
これだけ暑いと外の部活は午前で切り上げ、昼からは自主トレーニングか休みになるだろうなと思った次の瞬間、のばらは思い浮かんだ名案に自分を天才だと褒めながら急いでクローゼットを開けた。
観月の暗躍によりクラスの男子から逃れ、念願の女子生徒の輪に入ったのばらは少しずつ自分の意思で人とコミュニケーションをとる楽しみを思い出してきていた。
のばらのそんな心が伝わったように女子生徒たちものばらに気を遣うようなことが無くなったり、あえて意地悪な言葉をかける者もいなくなった。
むしろよく意地悪を言うなと思っていた女子生徒とは馬が合うようで、放課後に一緒にデート用の服を買いに行ったりした。
そのデート用の服に着替えてから髪を整え、のばらにしてみれば軽いストレッチのつもりで柔軟体操を行う。
「ちょっと動きづらいかも」
服の評価を終えて日焼け止めクリームやスプレーを全身に被るようにして塗り込み荷物を掴んで寮を飛び出すと、のばらは全速力でテニスコートへ向かった。
フェンス越しに様子をうかがえば、想像していた通りテニス部も外での活動を辞めにして地面に転がっている球を素早く片付けていた。
コートの傍らに裏地がしっかりとある傘を差している人物の存在に気付いて注視すると、その近くで水分補給をしていた色黒の男子生徒がこちらに気付いた。
観月と並ぶと大男に見えるそれは察しがよく、傘の中で何やら誰かに怒鳴っている観月の傘の中に屈んで入るようにしてのばらの存在を伝えてくれる。
そこまでの対応は良かったが、長身の彼は随分と声が通るのか一斉に部員がのばらを見た。
「昔の漫画みたい」
「絵画じゃん」
よくわからない感想を述べる部員に愛想笑いを浮かべて会釈をすると「早く片付けて帰りますよ」とさっきまで怒鳴っていた観月が引きつった笑顔を浮かべながら言った。
観月はそのままのばらにフェンス越しに近付いてきて、そのすぐ側に落ちていたボールを拾い上げるとまっすぐ視線をこちらに向けた。
「どこかお出かけなさるんです?」
「涼しいところに行きたくて」
「それで、お供が必要なんですね?」
「部活午前で終わりならどうかなと思って」
器用にボールを一度に3つも持つ長い指に、観月も男なのだと改めて実感して空気を目一杯吸い込む。
のばらは胸が高鳴るのを感じて、その初めて抱いた不思議な感覚に深呼吸をすると、フェンスの近くに立てかけてあったラケットにボールをいくつも積んで運ぶ観月の背中に穴を空けそうなほどじっと視線を向け続けた。
「お前まで球拾いなんて珍しいな」
「赤澤くん、余計な事を言ってないで手を動かしなさい、手を」
「はじめくんっていつもこんなに怒りんぼなの?」
「俺の前だといつも怒ってるよな」
「いいえ、全く怒っていませんよ」
のばらが赤澤と目を見合わせると、赤澤はわざとらしく手の親指側を自分の頬へ、小指側の側面をのばらに向けるようにしてコソコソ話のポーズをとって「怒ってるよな?」と小さめの声で言った。
のばらがうんうんと頷くと観月は口角をつり上げて「赤澤!」と声を上げてから「君」と付け足して、無理矢理浮かべた笑顔でまだ外されていないネットを指差した。
「あーはいはい」
額に浮かべた汗を手の甲で拭い、赤澤はもう一度のばらに向き直ってニカッと元気そうな笑みを浮かべる。
「今度試合見に来いよ」
誰にでも分け隔てなくこうなのだろう。良い人だとのばらは感心して大きく頷いた。
「それで、どちらに行かれるんです?」
「博物館かな。美術館でも良いんだけど」
「んふっ、素晴らしい提案ですね。やはり名字さんとは趣味が合うようです」
本当はただ涼しいから行きたいという理由なのだが、今はそのことは黙っておく。
空いている電車の座席で隣に並んで座ると触れそうなほど近くにいることに意識が行き、意識すればするほど気になってのばらはちらりと横目で観月を見る。
観月のまつ毛は爪楊枝くらい簡単に乗せられそうなほどに長く量が多い。
「観月くんすごい……剛毛……」
ヒュゥッというような声にならない声のような音を絞り出した観月から、のばらは照れくさくなり視線を外す。
普段観月が来ているような花柄のプリントがされたワンピースの裾をぎゅっと掴み、もう一度勇気を出して彼の方へ顔を向けるが、彼は放心した様子で空中を見つめている。
漫画であれば白目を向いて、縦線がいくつも引かれているような顔だ。
「観月くん? 大丈夫?」
「ぐ、具体的にどの辺りが……目立っているのでしょう」
「え? 目立つ……といえば顔? 全体的に観月くんは目立ってるよ」
「全体的に……ですか……」
美術館では静かにのんびりと芸術を堪能する。
時々観月の解説を聞いて相槌を打ったり、二人で初めて得た知識に感心したり目を見合わせて笑ったりしてあっという間に時間が過ぎた。
「お茶でもどうです?」
「うん、行く……きゃっ」
美術館に併設されているカフェに誘うような観月の手に頷き体の向きを変えた時、視界の外側にいた通行人がのばらの肩にぶつかった。
不意にぶつかられた衝撃で躓いたのばらの手首を観月がすばやく引いて、その力のベクトルに逆らえないままのばらは彼の胸へ飛び込む。
「っ……大丈夫ですか?」
観月の声。柔軟剤だろうか、シャツから香るローズ、そのシャツ越しに感じる温もり、女子とは違う硬い体――
「名字さん?」
「あっ、だ、大丈夫!」
シュバッと身を引いて自分の足でしっかり立つ。
Name_1#の顔は熱を持って赤くなり、心臓の音が全身の血管を伝って鼓膜まで届いているようだった。
なぜこれほどドキドキするのかのばらにはまだわからない。
長くスケートやバレエをやっているのに私生活でバランス崩して転びそうになったことが恥ずかしいのだろうか?
自分でもよくわからない感情に戸惑い、心配そうにのばらを見つめる観月から逃げるように目線を斜め下の方へとずらしていく。
「どこか傷めたりはしていませんね?」
「わたしは大丈夫。観月くんは?」
「ボクは何ともありませんよ」
偽物の恋人である観月は決して自分からのばらに触れようとはしなかった。有言実行を守る彼自身から手を出さないと言ったので当然だ。
それが不測の事態で、庇うために強く手首を握られて結果的に抱き寄せられたような形になったのにのばらは心の何処かで喜んでいた。
手を出さないと言う彼の言葉に安心していたはずが、離れた今ではもどかしくも感じる。
のばらがはぐらかすように、わざと喫茶店の看板のメニューに書かれたパンケーキとワッフルで悩む素振りを見せると観月はいつも通りに笑いかけスコーンの写真を指差す。
のばらは結局スコーンを頼むことに決めた。