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今はまだ優しいノクターンを
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秋の研修旅行という行事がある。臨海学校のようなもので、海ではないから研修旅行という名称だ。
親元を離れて寮生活をしている生徒にとってはただ1泊寝る場所が変わるだけのようなもので、のばらもそこまで特別意識してはいなった。が、もともとクラスで浮いた存在だったのばらを担任は喜々として観月と一緒のグループにさせようと企て、またある者は学院内でも目立った美男美女カップルに面白半分でお節介を焼き、そしてある者は純粋にのばらや観月と同じグループになりたいとそれぞれ動いた結果、とくに二人が、何かすることもなく勝手に同じグループになった。
そのためのばらは研修旅行前日はまるで小学生のようにワクワクしてなかなか寝付くことができなかった。
それが災いしてバスの中でのばらは熟睡してしまい、せっかく隣の席に座った観月と会話を楽しむ事もなく、さらに研修先では流れに身を任せて男女に別れてしまいあっという間に夜が来てしまった。
夜のレクレーションは室内でできる簡単なゲームと聞いていたので、せめてそれでは観月と恋人ごっこがしたい、しなければと背に燃え盛る炎のようなオーラをまといのばらは強く拳を握る。
――フルーツバスケットでも椅子取りゲームでもなんでもいい! 観月くんとお喋りをしたい!
「よし、トイレ休憩が終わったらお楽しみのレクレーションタイムだ」
完全に浮かれきったような伊勢海老のプリントTシャツを身にまとった教師の言葉に違うクラスの男子が一斉に「ヨッ! 日本一!」と声を上げる。
ゲラゲラと笑う男子の中に1人、先日コートで出会った太陽に愛された少年、赤澤がいる事に気付いてなんとなく安心したような気持ちになる。
赤澤は人間の心を掌握するプロなのだ。
学年全員が揃っていると一年前に悲しませてしまった女子生徒、怒らせてしまった女子生徒、期待を裏切ってしまった男子生徒ももちろんいるのでのばらにとってはかなり辛い場だが、順調すぎるほど順調に絆を持ち始めた現・クラスメイトの女子生徒たちの厚い壁がのばらをしっかり囲んだ。
儚い美しさを持つ観月に魅了された別のクラスの女子生徒による憎しみのこもった視線に、先程までの決意が揺らいでいたが仲間たちの強い頷きに頷きで返せば無敵である。
「行っけー! のばらちゃん!」
ターンとステップ、全てうまく行った時の高揚感のようなものを胸に男子部屋のメンバーで固まっている観月の横に滑り込むと、ふわりと柔らかい髪を揺らして顔をこちらに向けた観月がにこりと笑う。
「名字さん、こんばんは」
「はじめくん、指定のジャージ姿も素敵だね」
「んふっ、君こそまるでジャージをジャージとも思わせないような美しさ。目眩がしそうですよ」
サラリと恥ずかしい臭すぎるセリフを言い放つ観月に目眩がしそうなのはのばらの方だった。
すでに何度も見ているジャージをこれほどまで褒められる男は少なくともこの学院には一人しかいないだろう。
観月の恥ずかしすぎる言葉にザザーッと離れた男子生徒、顔を赤らめてヒソヒソ喋る者たち、のばらと観月は二人だけの世界を構築した。
「はい、全員揃いましたね! 今年の秋の研修旅行最大のイベント、夜のレクレーションタイムの詳細について発表です!」
教師の言葉にゴクリと唾を飲む。のばらだけではない、その場にいた多くの生徒たちが同じ様にした。
「今年はなんと、肝試しです! この宿泊施設のすぐ裏の森の一本道のつき当りに、くじの箱が置いてあります。我々が夜なべして景品を用意したので1人1枚ずつ引いてきてください」
毎年室内でできるゲームをしていると言われていたはずの夜のレクレーションが野外で肝試しなど、のばらは全く予想もしていなかった。
それは観月も同じだったようで、幽霊のように白い顔でせっかく風呂を済ませたのにどうしてなどと呟いた。
さも当たり前かのように観月とのばらは2人で参加する事となり、2人でスタート地点に立ち、何分か早く出て行って帰ってきた生徒と交代する形でルートへと足を踏み入れた。
すれ違う生徒もおらず、後ろの方にいる生徒や教師も角を曲がると見えなくなり、ルートを示すランタンや距離の書いてあるダンボール製の看板だけがのばらに安心感を与えてくれる。
わざとらしいホラー映画のBGMのような音を流す道標役のCDプレーヤーにのばらは恐怖を煽られて辺りをキョロキョロと見回す。すると観月が少しかがんでのばらを覗き込んだので、ハの字にした眉のまま足を止めて観月の顔を見つめる。
「君はこういう類のものが苦手なんですか?」
「観月くんは平気なの?」
「非化学的ですから。ボクは熊の方がよっぽど怖いです」
確かにそうだけれど、とのばらは頭に熊を思い浮かべる。鋭い爪や大きな口、たくさんの尖った歯を思い浮かべると足がすくんだ。
「どっちも怖いよ!」
「大丈夫ですよ。熊ここにはいません。早く行って帰りましょう」
一歩前へ踏み出した観月に、一瞬置いていかれるような気がしてのばらは咄嗟に手を伸ばした。
観月の細いようでしっかりと筋肉の付いた腕を両手で掴むと、観月はのばらに一瞥くれてすぐ道の向こうへ顔を背けてしまう。
「あっ、ご、ごめんなさい」
怒らせてしまったんじゃないかと不安に声が上擦って、幽霊よりも観月に怒られる怖さでその腕を放すと、「いえ、お気になさらず」と早口に言う彼の赤い耳が視界に入った。
前髪をいじる観月につられてのばらも顔を赤くして自分の足を見ていると、観月がゆっくりと距離を詰めるように隣に立った。
「ボクは……君に手を出さないと約束したので、君から手を出して下さい」
顔を上げると、長いまつ毛が覆う大きな目と目が合う。
ほんのりと頬を赤くしている観月に頷き、恐る恐るその白く形の整った手に手を重ねると心臓が爆発しそうなほど熱い血が体中を駆け抜けた。
包み込むような優しい力で握り返してくれる手にのばらは初めて他人の異性の手に安心感を抱いた。
どうしてか、もう放したくないという気持ちでいっぱいになる。
それが愛おしさだと気付くまでさほど時間はかからなかった。
――観月くんにちゃんと言わなきゃ
こんな時も頭に思い浮かぶスケートリンク。引き出しの奥にしまいこんだトゥシューズ。
好きと伝える前に、のばらは1年生の時にスケートリンクに置き去りにしてきた自分のことを知ってもらわなければならないと思った。
観月ならばきっと全てを受け止めてくれる、愛してくれる。そんな夢想に視野が狭まって消えそうなランタンすら気付かない。
のばらには何もかもが眩しすぎた。