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魔王
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1年生の春の終わり。山形の私立中に席を置いていたのばらは夏の全国大会への出場をかけた地方予選に出場し好成績を残した。
鳴り止まない拍手、祝福の声を上げる部員たち、誇らしげ教師、親族に自慢げに笑いかける母親。嬉しそうに笑う父親。全てあっても何か物足りなさを抱いていたのばらは表彰台の上では笑顔を浮かべていた。
翌日、先に部室に向かった別の部員の悲鳴にのばらが駆けつけると、ほとんどのロッカーの扉が鍵ごと破壊され、中身があたりに散乱していた。
もともと貴重品は置いていなかったが、数人の練習着や予備の下着、前日持って帰ったものとは別のレオタードが無くなっていた。
特にのばらのロッカーの中身は何も残っておらず、夏が近いというのに鳥肌が立ったその感覚をずっと忘れられない。
部活動は当然休みとなり、帰路につくとのばらは道の脇に白のワゴンが停められているのに気付く。
普段そんなところに車を停める人はおらず、田舎の殺風景な道になぜと不思議に思いフロントガラスを見ると、運転席の男もまたのばらを見ていた。
のばらは一瞬にしてそれが盗難事件の犯人だと悟り、踵を返し全速力で走り出すが車の速さに勝てるはずもない。
「ねえ、大会見たよ、すごいねぇ、綺麗だったよ」
真横を並走する車の窓から身を乗り出した男の声に汗が吹き出し、助けを求めようにも声が出ない。
「可愛いねぇ、一緒に遊びに行こうよ、名字 のばらちゃん」
全身から血の気が引いていき、正常な思考力も保てないままただ走り続けて学校へ戻る道を行くとようやく同じ制服の生徒が視界に現れる。
生徒が車に並走されているその異様な光景に、二人ほどいた名前も知らない女子が悲鳴を上げた。
その後から、のばらはスケートリンクを踏むことが嫌だと感じるようになった。バレエを捨ててまで選んだというのにだ。
スケートの大会に名前を出して出るのが怖かった。大会に出る気がないのに練習を行うのも、あのロッカー室に入るのも嫌だった。
それから間もなく、聖ルドルフ学院にスカウトされたのばらだったが一度は理由を話して断った。
それでも違う土地で、カウンセラーのいる学校で心のケアをしながら練習だけでも時々参加して生徒同士で刺激し合ったほうがいいと強く説得され結局転校を決意した。
「わたし、本当はね」
観月はのばらの言葉を遮るのを諦めたようだった。
詳しく過去の話をして同情を誘うのは何だか違うような気がして、のばら真実だけを口にする。
「スケート部、あんまり行けてないの」
外よりも少し蒸し暑い倉庫。
パーカーを脱いでノースリーブ姿になったのばらから観月は視線を遠ざけた。
蛍光灯に照らされて青白く見える観月の顔に、のばらは生きてきて何度か見たことのある失望の色を感じ取る。
観月は密室で肩を露出した女が近くにいても何も思わないのだろう、のばらはそれまで抱いていた嫌悪の対象が男そのものではないと確信した。
そして観月に対する自分の感情が恋で、愛だとも。
「観月くん」
囁きながらゆっくりと傍らに寄り、その人形のような横顔に精一杯の笑顔を浮かべた。
「観月くんが頑張れって言ってくれたら、何でもできそうな気がする」
観月の顔に変化はない。何か考え事をしているような遠くを見つめる横顔にのばらはただ涙を堪えて笑うしかなかった。
失望したのだろう、もうのばらのことなど好いていないのだろう。膨らんでいた夢想に入った亀裂が大きく広がって引き裂かれるのはのばらの心だ。
だからといって言わなければ良かったなどとも思わない。のばらは気持ちを伝える前に本当の事を言えて良かったとも思っていた。
「観月くん、もうわたしの恋人のフリなんて嫌だよね」
「……いえ、それは別の話です。それこそ本当の恋人同士ではないのですし、感情に任せたりはしませんよ」
「うん……」
「で、ボクに隠している事はそれだけですか?」
ひやり、と冷たい空気に辺りが飲み込まれるような感触。
のばらの頬に伝う涙に、初めて観月は動揺しない。
いつものような心配そうな顔もしなければ、手を差し伸ばす事もなく、横目で観月が向けてくる冷たい氷のような視線がのばらの視神経を伝わって脳を突き刺した。
「まだあるよ」
こうして素直に泣けるだけのばらは心が強い。逃げ出す事ができるだけ自分を守ることが得意だ。
椅子に座ったままの観月の顔の高さに合わせて姿勢を低くして、もうすぐ触れそうな距離で一度止まる。
「観月くんから手を出さないって約束は無しにして。だから早く、わたしを突き飛ばして拒んで」
そこで初めて観月が表情を変えた。1秒、2秒と彼が逃げ出すのを待って数えても観月は一度見開いた目をまた伏せるだけだった。
5秒がたって、のばらは観月のなめらかな頬に唇で触れた。
「これが、わたしの気持ち」
観月は照れもせず、怒りも悲しみも何も無い顔でのばらの顔を見る。
「付き飛ばしてくれれば良かったのに」
「言いたい事はそれだけですか?」
「いろいろと、黙っててごめんなさい」
「ええ、全くです」
粉々に砕けた夢の欠片を踏みにじるような観月の冷たい声、眼差しを、のばらはそれでも愛しいと感じた。
まだ観月にとって利用価値を見出されているのなら、それを最大限利用してもらうだけ。明日から部活に勤しみ遅れを取り戻せば、友人の一人には数えて貰えるかもしれない。
これまで観月を利用してきた罪も、彼の期待を裏切った罪も、やる気のないスケートを続けて彼と話すきっかけとなったバレエを辞めた罪も、全てを受け止めて生きていく。そう決心すると後ろめたさが消えてむしろ清々しくさえ思えた。
のばらはもともと座っていた椅子に再び腰を掛け、冷たい二人だけの世界に身を投じた。