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ダフニスとクロエはまだ結ばれない
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すぐに誰かが迎えに来るだろうという期待を裏切るように、夜が深く静かになっていく。
いい加減に倉庫の窓から漏れる光に気付いた大人が迎えにきてもおかしくないはずだった。
蒸し暑さまで感じていたというのに、深夜0時を迎える頃にはやや肌寒さを感じるようになっていた。
はじめは肌寒さ以外何も感じなかった。ほんの数時間前までの自分ならば信じられないほどに何も感じないのだ。
あれほど庇護欲を感じていたのばらの涙も、愛していたはずの人からの頬への口付けすら何も感じなかった。
念願の両想いでは無かったのだろうか? こんなにもあっけなく愛は崩れるものなのだろうか?
眩しかった数年前ののばらはもういない。あれほどまで愛していたはずなのに、今はただ容姿が整っただけの女子の一人としか思わない。
あれは本当に愛だったのだろうか?
はじめは天井を見上げる。腕時計ばかり見ていて首が疲れていた。
目を閉じると氷を蹴り上げ高く飛び、優雅に、まるで妖精のように美しく舞うかつてののばらの映像を見た日の事が蘇る。
彼女の通っていたスケート教室の講師が動画サイトに掲載していたものだ。
バレエをしている時よりも冷めた目で、口元に浮かべたまがい物の笑顔が印象的だった。
それでも勝てばそれだけで愛しいと思った。美しいと思った。
――僕は勝利が好きだ。勝つ人が好きだ。彼女の経歴が好きだった。バレエやスケートの成績が好きだった。容姿はそのオマケだ。彼女自身を好きなわけではなかった。バレエもスケートも体操もダンスも何にも勝てないあの人に、もう惹かれる部分はない。
元から愛など無かったのだと気付くと、あとはのばらの利用価値について考えるだけだった。
学院内でも一、二を争うほどの美貌を持つのばらの恋人という立場は決して悪いものではない。のばらを前にして他の女子生徒ははじめに愛の告白をしない。
告白をされに指定の場所に赴き断るという面倒を省くのにのばらはかなり有能な防御壁だ。
頭の位置を元に戻した流れでそのまま膝に肘を置き、前屈みで思考を巡らせていく。
防御壁にもアクセサリーにも今のところ一番ふさわしく、それでいてはじめの言う事を何でも素直に聞きそうな優秀なコマを上手く使うにはどうしたら良いのだろうか。
緊張が解けたのと疲れで段々と頭がぼうっとしてきたはじめは、抗いきれずそのまま少し眠る事にした。
起きていても体力の無駄にしかならない。
ドンドン、と何かを叩く音に目が覚めたのは深夜2時だった。
肩にふわふわと柔らかい布のようなものがかけられているのに気付き、少し離れている隣の椅子を見ればのばらがノースリーブ姿で眠っていた。
「観月くん、名字さん、そこにいる?」
教師の声にハッと我に返り返事をし、手触りのいい綿のようなパーカーをのばらの上半身に戻す。
「います、二人一緒です。ドアが壊れているみたいで、こちらから開けられないんです」
「わかった、今他の先生たちも呼んでくるから待ってて」
ようやく助けが来て安堵し、眠っているのばらに声をかける。
うっすら開いた瞼からはじめを見上げる瞳が揺らぐ。
「そんな薄着で風邪引きますよ」
「寒いの慣れてるから平気……」
血色が悪いのばらに罪悪感があるが、それでも健気な彼女を愛らしいとか抱きしめてやりたいなど以前感じていたような感情や欲求は沸き立たない。
もうそこに愛は微塵も存在しない。何も感じない。
天使のような容姿のコマは、弱々しく微笑むだけだった。