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ハンガリー舞曲第5番の青春
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大きく変わったのに、何も変わっていないような日々が繰り返される。
変わったことと言えば、観月がのばらのことを下の名前で呼ぶようになったことくらいだ。
ただ愛想笑いを浮かべて名を呼ぶ観月の目は冷たく、以前のように熱っぽい眼差しを向けられたり、照れて頰を赤らめたりして微笑む事はなくなっていた。
何とも思って無いからこそ簡単に名前を呼ぶことができるのだ。
「観月くん、この前のハロウィンパーティー来なかったでしょう? これ観月くんの分のお菓子だよ」
「スナック菓子は苦手なので差し上げます」
「そう言うかと思って、デパートのラスクとパート・ド・フリュイだけ持ってきたよ」
「おや、それでは後でお茶の時にでも頂きますよ。そこに置いておいてください」
もう二度と、君も一緒にどうですか? と優しい声音で紅茶を勧められることもないのだろうと思うと切なく、胸が苦しい。
「徒然なるままに、日くらし、硯に向かいて、心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば」
国語の授業。のばらが読み上げると教師が嬉しそうに教科書を見つめていた顔を上げた。
「名字さんとても聞き取りやすくて良い声だね。クリスマス礼拝の賛美歌、女子のソロパートに立候補してみたらどう?」
ああ、そんなイベントが去年にもあったなと思い出し曖昧な笑いを浮かべると、すぐ近くの席で教科書に隠れて早弁をしていた友人の女子生徒が興奮した様子で握った箸を掲げて賛成の声を上げた。
教科書の裏で文房具積み木に勤しむ生徒や他の生徒たちも良いじゃん良いじゃんと声をあげるので、立候補するだけならば良いかと「挑戦してみようかな」と言うと、まだ決まったわけではないのに拍手が上がる。
椅子に座って髪を耳にかけると、開いた視界に観月がいるので様子を伺い見ると視線に気付いた観月はにこりと愛想の良い笑みを浮かべた。
「頑張ってくださいね」
それは全く違うのだ。のばらが本当に応援されたいのはそれではない。しかし例え演技でもその場限りの言葉でも観月に言われると火が付いたようにやる気がみなぎり始める。
「男子は観月くんじゃない?」
「音楽の授業でS評価とってたもんね」
まんざらでもないような本当の微笑みにのばらは心の中でグッと拳を握った。
――ソプラノは絶対にわたしがやる。やってやる。クラシックバレエのついでにオペラは聴き慣れているんだから!
「のばらさん、こちらの名簿をお願いします。未提出者の名前はこちらに。後でスピーチコンテスト、冬季読書感想文コンクール、それから理科のレポート課題も合わせて催促しに行くので、そのリストを作りますよ」
「うん」
スケート部の活動にあまり参加できていないと知ってから、観月は容赦なく自分の点数稼ぎにのばらを利用するようになっていた。
ここで普通ならばのばらは観月を好きではなくなってもおかしくないのだが、観月と二人きりの時間がほとんどそれだけになってしまったのでむしろ喜んで利用されに行く。
観月を手伝った後の部活は調子が良く、彼女の過去の功績や事情を知る部員たちも喜んで迎え入れた。
たまに少し練習に加わって見学していただけののばらが積極的に参加し始めると、それまで気をつかって接していた部員たちも徐々に遠慮のない明るい笑顔を浮かべるようになっていった。
全てが眩しい世界でのばらは自分の本当の気持ちに霞がかかっていくのを感じた。
いつかスケートが愛おしくなる。いつか必ずバレエを忘れる日が来る。いつか……
夜の練習上がり、同じように寮で生活をしている部員たちと部室を出る。
減量中だというのにスナック菓子が食べたいと喚き出す部員の一人を数人がかり担いで寮に運ぶ途中、観月とハチマキをした男子生徒が通りかかりのばらは「あっ」と声をあげる。
「ポテチ〜」と喚き散らす女子生徒の四肢を持って歩く奇妙な集団に観月は他人のフリでもしようとしているのかそのまま足を止めないが、赤いハチマキの生徒は驚いたのかそれとも面白がっているのか足を止めて静観している。
「淳くん行きますよ」
「でも観月、こんな面白いものもう見れないかもしれないよ」
クスクスと笑う淳と呼ばれた生徒は夜だからやや見づらいが観月とは違うタイプの爽やか美少年だ。その顔を見るなりのばら以外の部員がパッとポテチ女子の手足を離した。
「グエッ」
「そんな、面白いなんて! そうです私は面白い女です」
「うふふ、私の方が面白いですよ」
「私だって彼氏のいない面白い女です」
のばらに握られていた手首だけを宙に浮かせて尻から落ちた女子生徒の頭を撫でながら淳を見上げると、淳は食いついてきた女子生徒に照れもせず表情をそのままのばらと目を合わせた。
観月と赤澤以外の男子とはあまり目を合わせないようにと心がけていた癖で目をそらすと、淳は「またお神輿する時は呼んでよ。写真撮らせてね」と言い残して観月の待つ方へ歩き始めた。
「淳くんイケメン! 超イケメン!」
「名字さ〜ん、観月くんのコネで連絡先聞いてきてくださいな」
「ちょっと、それより私の尻が割れたのどう落とし前つけてくれるの?」
「うるせえ! ポテチでも食ってろ!」
「私が4回転飛べなくなったらアンタたちのせいなんだから〜」
「もともと飛べないやつが何を言うか!」