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もろびとこぞりて
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溢れ出す泡、上へと向かっていく泡。高い場所に見える光、輝くのは水面だ。
――ああ、今、わたしは溺れているんだ
脚をばたつかせ必死に水面で優雅なフリをしていた白鳥。今ののばらは自分が白鳥ではないと気付いている。
脚を失った白鳥を待つ湖は無い。
鳴り響くアラームの音に目を覚ます。この時点でのばらは夢のことなど忘れていた。内容を忘れた嫌な夢に汗をかいているのを少しだけ不快に感じただけだ。
朝練の前に先に軽くジョギングをしてから誰よりも早く練習場でウォーミングアップをするのが日課となっていた。
バスでスケートリンクのある最寄りの練習場に行く午後練習以外、リンクの設備がないルドルフでは朝、クラシックバレエや新体操のように滑らない床で練習をする。
他の部活とは違い、スケート部は人数が少なく大会も学校ではなく個人で出場するので上下関係がかなり緩い。無いと言っても過言ではなく、そもそも関東ではスケート部がある学校自体が少ないので同じ都内で生まれた部員同士は学年が違っていても幼馴染だったりするのだ。
ほとんど敬語など使わず、途中からようやく参加し始めたのばらが上手く馴染めたのもその仲の良い部員同士の関係性や一人増えようが大会に出場するのに大きな支障がないためだった。
「名字さんソロパート選ばれたんでしょう? すごいわ!」
「祝ってあげるからさあ、ポテチパーティーしようよ」
「歌いながら練習しててやばい奴だと思ってたけど、やりきったね!」
「私も頭おかしい奴かと思ってたよ」
「みんなのおかげだよ! ありがとう!」
「お待ちくださいな、私以外皆さん酷い事ばかり言ってるわ! プリンセスになりきれていない!」
部員の期待を胸に迎えるクリスマス礼拝の朝。卒業生や関係者であれば結婚式を挙げられると噂の記念ホールに予定よりも早く着くと、すでに鍵どころかドアそのものが開放されていた。
中央の通路をまっすぐ行った先には絵画から飛び出してきた天使のような男子生徒が一人、こちらに背を向けて立っている。すぐに観月だと確信してのばらは歩き始めた。
「お早いですね」
「はじめくんこそ」
誰かが他にもいるかもしれないと思って下の名前で呼ぶと、観月はそこでようやく振り返ってのばらの顔を見る。
「部活の方、その後どうですか?」
観月の問いは決して他の部員と仲良くできているか? というものではないとのばらはすぐに理解した。
楽しくしているかではなく、成績の方だ。年内のプロ選手を目指す者たちが集まる大きな大会はもちろん間に合わず、年が明けた1月後半の国内の冬季大会を目指して練習をしている。
「正直、長い間サボっていたからとても前みたいにはいかないと思う」
「それで、スケートを辞めて音楽でも始めるんですか?」
「まだ辞めないよ。わたしはまだ頑張れるから」
ステンドグラスに視線をやるのばらは、それが水面のようだと唐突に思う。
まだ頑張れる。まだ足掻くことができる。そう強く思ってのばらは満面に笑みを浮かべた。
「わたし、ずっとはじめくんの彼女でいたいからもっと頑張る。義務教育が終わったら世界を目指す。フィギュアスケーターとしての寿命が尽きるまで」
「まあ、僕なりに応援していますよ。それから、今日のところはひとまずおめでとうございます。君はオーディションを勝ち抜いてソロパートを勝ち取った。素晴らしいことです」
「えへへ」
「君はよく通る声で、それでいて美しい声だと思います。君は本当に要領よく何でもこなしますね」
「そんなに褒められるとわたし」
「数学や化学もそれくらいしっかりできると良いですねぇ」
「はじめくん! わたし生物もできないよ!」
――報われた。何かを全力で頑張ってそれを認められるってこれほどまでに心地の良いものなんだ。
バレエのコンクールで賞をとった幼い日の頃を思い出す。あの時ものばらは同じような達成感や煌めきを感じていた。
生きる喜び、苦しみ、果てのない夢、支えてくれるものたちへの感謝。
歌う事が本当に楽しくなるなどのばらにとっては想定外だった。
元々歌うことが苦手では無かったが、記憶も薄れるほど幼い頃、ピアノやヴァイオリン教室で何度か体験をした時にのばらの母親はあまりいい顔をしなかった。だから音楽を進んでやる機会が無いまま2年の冬になった。
大勢の人の注目の的になるのには慣れていた。観月や彼の友人、今のクラスメイト、スケート部の部員たちのおかげで他人への不信感もかなり薄れていた。
いつの間にかのばらの心は晴れていた。
暖かい日差しの中で柔らかな草の上を裸足で駆け回るような気持ちだ。
歌っている間、誰よりも輝けているような気持ち。同じくらい一緒に眩しい中で過ごしてくれる観月が心から愛おしく感じる。
――楽しい、全部が輝いて見える! ずっとこうして歌い続けたい!
終わりの時間を過ぎ、教室へ戻ってものばらは輝きの余韻に胸が高鳴っていた。
明日から冬休みと言われても実感が湧かず、ぼうっとした顔で体育と音楽、国語、選択科目だけがやたらと良い成績表を眺める。
のばらは正月でも実家には帰らない。毎日練習をして遅れを取り戻す。
――観月くんに応援して貰えるんだから、勝たなきゃ意味がない
――勝てないなら、もう一度やる意味がないの