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さようなら、トロイメライ2
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茶菓子にといくつか取り寄せてあったクッキー、水筒の中に温かいダージリンティーを淹れて見舞いに来たはじめに、昨日とは違うのばらが一昨日までと同じ眩しい笑顔を向ける。
そこにはのばらだけでなく、年齢を感じさせない美しい大人の女性と、ブランドのスーツに身を包んだ品のいい男性が並んでいた。
のばらの掲載された地元新聞やローカル番組で何度か目にしていたので、それが彼女の両親だと気付くまでに1秒もかからない。
「はじめまして。同じクラスの観月です」
お辞儀をして挨拶をすると、いつもよりさらに丁寧な喋り方でのばらが話し出す。
「観月くんもご実家が同じ山形で、お友達なの」
まるで品定めするような視線を向けてくるのばらの母親とは対照的に、彼女の父親はいつものばらがするような優しく穏やかで花も霞むような眩しい笑顔を浮かべる。
「観月さん……もしかして隣町のさくらんぼ農家さんのご子息かな」
地元に詳しければ知っていてもおかしくない。それでも観月にはこの上なく嬉しく、緊張していた肩の力が抜けて自然な笑みが浮かんだ。
「はい。ご存知だったのですね。光栄です」
「もちろん知っているよ。僕は君のお父さんのファンなんだ」
常備しているクッキーの中でも一番高価なものを持ってきておいて良かったと内心ホッとしながら、片手に持った紙袋を差し出すとのばらの母親が貼り付けたような笑顔でそれを受け取った。
「のばらちゃん、こちらの観月さんはただのお友達なの? とても素敵な殿方だけれど」
「残念だけれど、ただのお友達」
「そうよね。失礼なことを聞いてしまってごめんなさいね。観月さん、これからも娘と良いお友達として仲良くしてやってくださいね、そう、お友達として」
「こら、観月さんが困っているよ。ごめんね、妻は過保護なところがあってね。気を悪くしないでおくれ」
絵に描いたような美しい家庭。そして絵に書いたように息苦しい家族だとはじめは思った。
友達と紹介されたことよりも、その事のほうが気になって時々のばらの顔を見ると、どこか遠い場所を見ている瞳に暗い影が差していた。
「のばらちゃん、先生がこれからもスケート部に在席していて良いと言ってくださったけれど、お母さんはそんなの反対よ。他のこたちがスケートをやってるのを見せられるなんて辛いでしょう」
「そんなことないよ」
「強がらなくていいのよ。ねえ、のばらちゃんは乗馬と生花ならどっちが良いかしら? のばらちゃんお馬さんもお花も好きだったわよね」
乗馬部も生花部もルドルフにはない。
はじめはこの時、のばらがなぜバレエを辞めてスケートを続けたのかを察した。
のばらを見つめる母親の期待に輝く瞳は、かつての自分と重なる。
今度こそは助けなくては。そう思った時のばらが声に出して笑った。
「ふふ、お母さんったらせっかちなんだから。ギプスが取れるまでじっくり考えておくね」
「……そう。確かにそうね」
「今は怪我の治癒が第一なのだから、ゆっくり休ませてあげなさい」
「わかってるわ。さて、せっかく東京まで来たのだし、観光をしてくるわね。お土産買ってくるからね」
「楽しみにしてる」
ハイブランドのバーキンを持って楽しげに病室を後にする母親を見送るように、少し遅れて父親が立ち上がる。
「お父さん、お願い。わたしまだルドルフにいたいの」
「ああ、わかっているよ」
母親とは違い、父親はのばらの意思を尊重する気があるようでしっかりと頷いて笑っていた。のばらの父親は優しくポンポンと娘の頭を撫でてから振り返る。優しい瞳に見つめられて、はじめは背筋をさらに伸ばした。
「娘をよろすくね」
「えっ、はいっ、こ、こぢらごそよろすくお願いすます」
「素敵なお父様ですね」
顔は母親の方がのばらと似ているが、物腰の柔らかくふわふわと柔らかい笑顔を浮かべて優しい眼差しを向けてくるところは父親譲りなのだと確信する。
のばらよりも、よっぽど自分の方が彼女の母親に似ていないか? と我ながら嫌な奴だと内心思っているのがバレてしまったのか、のばらが小さく笑いだした。
「ギプスを見た時のお母さん、部活行ってないって言った時の観月くんと同じ顔してたよ」
ザクリと鋭い言葉が胸に深く突き刺さって思わず項垂れると、いつの間にかはじめの持ってきたクッキーの箱を開けたのばらが楽しげにどれを口に運ぶか選び始めた。
「一晩、ちゃんと観月くんに言いたい事を頭の中で整理したの」
大事そうにクッキーの箱を両手で持ったまま、父親譲りの優しい瞳がこちらに向けられたのを恐る恐る見つめ返す。少しびくびくしているはじめの様子が可笑しいのかのばらが声をあげて笑う。
「昨日は頭ぐちゃぐちゃで、足痛いしちょっとイライラしちゃってごめんね」
「いえ、悪いのはボクですから」
「観月くんは悪くないよ。わたし観月くんにいっぱいお礼言いたい」
あまりにも意外な言葉に思わず瞠目する。まるで聖母のような優しい顔に鼓動は正直に早く大きくなっていく。
「観月くんのおかげで友達がいっぱいできて学校が楽しくなったんだ。スケートだって観月くんがいたからまたできて、部員のこたちとも仲良くなれたし。観月くんはわたしがスケートをまた始めたことを後悔しているみたいだけど、わたしにとってはかけがえの無い、すごく素敵な毎日なんだよ。それはきっと、これからもそう」
重たく、のしかかっていた罪の重りをどかすように、のばらの瞳に吹っ切れたような爽やかな色、未来への希望が輝いていた。
いつものばらは心のコントロールがうまい。簡単に諦めることができ、明るく振る舞える。
それを強さと呼ぶ人もいるが、はじめにはひび割れた脆い硝子のようだと思えた。
もう二度とのばらから大切なものを奪わせない。もう二度と傷付けない。
――いつかまた、真に輝く君の笑顔を取り戻したい。そのためならボクは……