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運命のオーヴァチュア ※
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それは深く、深い湖。氷の張った、命の無い湖の奥底で息を潜めていた白鳥は、ようやく目を覚まして翼を広げる。
冬が終わりを告げた心に優しい日差しが降り注ぎ、のばらは溢れ出る感情に両手で口元を覆った。
眩しいスポットライト。舞台の全てが主人公の女性のためだけに存在しているようだった。
歌声にぞくぞくと鳥肌が立って、いつの間にか涙が溢れてくる。
開演間際まで隣にいる観月と松葉杖ばかりに気を取られていたというのに、気が付くとのばらは舞台の作り出す世界に囚われていた。
この世にあるものはバレエとスケートだけではない。当たり前の事を思い出すと、涙は次々溢れて止まらなくなってしまう。
幕が降りても世界中がキラキラと輝いている。夢うつつ。収まらない胸の激しい鼓動が苦しくて心地よい。
舞台以外に思い出すのはただただ楽しかったクラシックバレエ。歌いながら舞ったスケートリンク。そして幸せだったクリスマス礼拝。
「ベートーヴェンの悪筆で現在エリーゼのためにと読まれているあの曲タイトルが、実はテレーゼのためにだったのではないかという話を以前聞いたことがありました。だからテレーゼこそ本当の生き別れの娘なのではないかと、序盤から勘付いていたのですが……まさかあんな展開になるなんて」
隣で同じように目をキラキラ輝かせながら語る観月に何度も何度も頷く。
駅に向かうのに混雑している道を避けて、少しだけ遠回りになるが道幅が広く歩きやすそうな公園の中の通路を歩いていると、自販機とベンチを見つけた観月が足を止めた。
「少し、休憩しましょうか」
「うん」
沈みかけた太陽。涼しい風に髪がなびく夕方。観月の口には合わないだろう缶飲料を手にベンチに腰をかける。
子どもたちのいなくなった公園はポツリポツリと街灯が光って、地面の煉瓦は日中とは違う色に染まっている。
座る時に座面に付いたままでいた手に観月の手を重ねられて、まだ開けていない缶飲料をそれとなくベンチに置いた。
日中から、駅の人混みの中で何度も振り返っては急かさずにゆっくりと速度を合わせてくれたり、喫茶店で椅子を引いてくれたりと動作一つ一つに自分が大切にされていることを感じていた。
観月にとって、それが罪悪感や思い込みによるものでも今大切にされている事実は変わらない。
言葉にしなくても互いに自然と見つめ合い、距離を縮めていく。ただの触れるように重ねられていた手を、観月が少しだけ強く握ってきたのを合図に目を瞑る。
人生で二度目のキスは、前回のものよりも胸が熱く蕩けるように感じた。
離れても少し角度を変えてまた口付けてくる観月の膝に、空いている方の手を乗せて身を乗り出す。そこで観月はパッと真っ赤になった顔を離してしまった。
「誰か、来るかもしれませんし」
こんなふうに照れられると、のばらはあの倉庫の中での一件は何だったのだろうかとさえ思う。
「……ねえ、観月くんの好きなタイプ教えて」
「……そんなこと聞いてどうするんですか?」
「スポーツで賞をとるこ?」
「違います……この際なので言います。あの時は愚かなことに、まるで被害者意識のようなものを抱いたんです。こんな事を言ったら気味が悪いかもしれませんが、君の出場するいろいろな種目の大会を調べては、入賞者欄に君の名前を探して喜んでいた時代があったので……何を応援したら良いのかわからなくなったんです」
バレエとスケートの成績しか知らないと思っていた観月が、新体操、ダンス、バトントワリングなどの大会に出た過去を知っているのに驚愕してポカンと口を開けてしまう。
つまりそれは、のばらの大ファンという告白だ。
「もしかして、あの運動会の時からわたしのこと好きなの?」
「……もう少し前です。当時のクラスメイトのバレエの発表会で一目惚れをしたんです」
のばらは賞とは関係ない発表会に出ることはほとんどなく、一度、10歳の時、当時地元の議会議員であった父の知人が見に来るとのことで参加したことがあった。
「へえ……10歳の頃から……」
「そういう君はどうなんですか、君だってボクの事を」
「うーん……肝試しの時かな? ドキドキしたから」
「……そういうの、吊り橋効果って言うんですよ」
観月に開けてもらった缶の中身を一気に飲み干して、また二人で立ち上がり帰路につく。
二人の間にもう壁はない。
「そっかそっか、ファンの観月くん、わたしのこと何年も好きでいてくれたんだ」
「そうですよ。だからそろそろ嘘じゃないと信じてくださいね」
「えへへ、デートのためにリハビリ頑張ろうっと」
夢は尽きない。例えそれがひび割れた脆い幻でも。彼方の蜃気楼でもそれを目指すのばらの足はようやくまた一歩、一歩と前へ歩み始めた。
これは少女の旅の始まりの物語。運命の序曲である。