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未来を知らぬウリッセ
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テニスで多忙な中、はじめは生まれて初めて書いた脚本を封筒に入れ、合宿所最寄りのポストを探して投函した。
クリスマス礼拝でテニス部と演劇部が合同でページェントを行うことになったのだ。マリアを演じるのばらのことを想像すると、まだその舞台を見てもいないのに胸が打ち震えて思わずため息をこぼしてしまう。
会えない日々が続いているが、昨晩もビデオ通話をした。のばらの優しい声、笑みに愛は冷めるどころか日に日に増していく。
一昨日よりも昨日、昨日よりも今日と、恋しさ、愛おしさが積もり積もって少し切なくもどかしい。それでもはじめはテニスを辞めることなどできるはずがない。テニスははじめにとって生きる活力の一つなのだ。
今年のクリスマスツリー点灯式は必ず二人で行こうと約束をして、終わりゆく秋の風に瞼を閉じる。
裕太の菓子を勝手に食べた犯人探しに盛り上がる、いつにも増して騒がしい夕暮れのことだった。
はじめが東京・聖ルドルフ学院の学生寮に戻ったのは冬だった。
すでに演劇部の練習が行われていると聞いていたが、寮に来ていた赤澤が汚したカーテンを洗うのと、木更津の髪を切り整えてやるのと、共有スペースや浴場の散らばった備品の片付けやら何やら忙しくて顔を出すことができないまま夜になってしまった。
明日の朝教室でのばらに会えるのだからそれまでの辛抱と胸に言い聞かせても、心が落ち着くことはなく門限ぎりぎりの時間になって寮の玄関ドアを開けた。
少し外の空気を吸うだけだ。女子寮に向かうわけではない。
なんとなく足を運んだ公園は夜になると子供はおらず、街灯は誰もいない噴水をキラキラと輝かせている。
クリスマスに向けて設置されたイルミネーションが寂しく輝く中、一際目をひく少女が月の光を浴びている。
「のばらさん」
思わず声に出すと、手に持っていた台本から視線を外したのばらが少し驚いた顔をして、その後すぐ少しだけ頭を傾けて柔らかく微笑んだ。
「わたくしをお呼びになるのは、どなたですか?」
それが自分の書いた台詞だと気付いて思わず笑ってしまう。すぐに姿勢を正して、はじめもまっすぐ前を向いた。
「私はガブリエル。さあマリア、喜びなさい。マリア、あなたはこの世で最も恵まれた女性。神はあなたと共におられます」
「それはどういうことなのでしょう」
「マリア、あなたは選ばれたのです。何も怖がることはありません。神はあなたに可愛らしい赤子を授けることでしょう」
「まあ、そのような事が……わたくしはまだ結婚を」
ピタリ、と止まってしまったのばらの顔に浮かんでいたはずの困惑の表情が消えた。
「のばらさん?」
台詞を忘れたものと思ってはじめが声をかけると、のばらが腕を組んでわざとらしく頭を傾げる。
「結婚をしていなくとも、わたくしは純真無垢な乙女ではないわ。ね、ガブリエル様、わたしがマリア様で良いのかな」
演技がかった喋りに、見慣れたいつもの微笑み。ひらり、とスカートを翻して輝く月を見上げる顔は優しく美しい。
「……君以外に、この学校で聖母に成りすませる人はいませんよ」
「ふふ、それってすごく罰当たりだよね」
「君は神様すら騙す演者になるわけですからね」
「懺悔します」
笑いながら、弾むようにステップを踏んではじめの横に並んだのばらの手を握ると、また小さな笑い声が鼓膜をくすぐった。握り返してくれる手はなめらかで、少し小さく弱々しい。
門限までに帰るには走らないと間に合わない。
手を繋いで途中まで同じ道を走っている間、なぜか楽しくて思わず笑ってしまう。
それははじめだけではなく、のばらも同じようだった。二人でいると幸せで、ただ走っているだけなのになぜか楽しくて堪らないのだ。
願わくば、ずっと、永久に二人で笑っていたい。
このあまりにも甘くて優しい穏やかな幸せの時は、そう遠くない未来に再び休符を打たれて音が絶えてしまう。
そんなことをはじめは知る由もない。今はただ無邪気に笑顔で過ごすのだった。