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ニ月のシンフォニエッタ1
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2月13日18時16分。
バレンタインデーの前日から当日にかけて、女子寮のキッチンは当然満員で使えない。
はなから手作りの菓子など作るつもりのなかったのばらには関係ない話である。
休日の早朝に勇気を振り絞り電車に乗り込んでパティスリーへと買いに行ったショコラを、観月はどんな顔で受け取ってくれるのだろう? 翌日が楽しみで早く時を進めて欲しいと願ったのは久しぶりのことだった。
2月13日21時38分。
スマートフォンが鳴る。観月から届くメッセージ。「明日の放課後会えませんか?」という内容に心の中でキャーッと声を上げて喜びながら返事をする。
2月14日6時21分。
走り込みを終えて寮へ。まだキッチンには人の気配があり、甘い香りが辺りに充満している。ありったけの幸せが詰められた美味しそうな香りに、手作りでない菓子に不安を覚え始める。
2月14日8時45分。
会話した女子生徒が皆手作りの菓子を持っていることに驚愕。「友チョコ」を手に入れるが全て手作りのもの。手作りだと嬉しいと話している男子生徒の言葉に不安が大きくなる。
2月14日11時45分。
家庭科最後の授業で使い終わった裁縫道具を教室に持ち帰る。トートバッグの中にはショコラが入っているので、とりあえず通学バッグにしまうことにした。
2月14日12時13分。
久しぶりに、卒業式のためにと帰ってきたスケート部の部員たちと昼食をとる。部員の投げつけた手作り義理ガトーショコラを、柳沢が照れながら食べる。のばらの義理チョコは持ち帰って後で食べると言って口にしなかったので不安が更に大きくなる。
2月14日12時28分。
会話に加わりに来た観月が、木更津が持っているのばらからの義理チョコを見て冷ややかな顔をする。不安すぎてトイレに駆け込みうがいをして気持ちを落ち着かせる。
――放課後
午後の授業には集中できず、ショコラティエになるにはどういう鍛錬が必要なのかとスマートフォンで検索をしてみたが時すでに遅し、観月に手を引っ張られて家庭科室に連れ込まれる。
ドアを閉めてしまった観月の真剣な横顔に思わずキュンとしてしまうが、密室で何か無いわけがないと今日身につけてきた下着がどんなものだったか思い出そうと必死に記憶を手繰り寄せる。しかしそんなのばらのときめき、悶々とした心には気付いていないのか、観月は手際よく調理器具を並べてカバンからチョコレートなどの食材を取り出し始めた。
慣れた手付きで材料をかき混ぜ、あっという間に予熱180℃のオーブンに入れてしまうと、今度は戸棚から茶器を取り出す。
「ねえ、はじめくん」
「大丈夫ですよ、家庭科室の使用許可は頂きましたから。普段の行いを気を付けていればこれくらい」
「それもなんだけど、あの、何を」
「フォンダンショコラです。出来立てが一番美味しいですから」
「それは、バレンタインデーの」
「ええ、もちろん、あなたへの本命チョコレートですよ」
のばらは先程木更津に渡した義理チョコを見ていた観月の冷たい視線を思い出して、そっと自分の買ってきたチョコレートの入ったトートバッグを通学カバンで隠すように置いた。
「ミルクは入れますか?」
「ううん、ストレートで」
「それではアールグレイにしましょうか」
悟られないようにと落ち着いて笑ってから、そわそわとオーブンを見たり紅茶を飲みに席に戻ったりしているのを観月にじっと見られ続ける。
視線を感じながらもまるで気付いていないように、スマートフォンでオーブンの写真を撮ったりと3分の2は本気で楽しむ。嘘や演技はほんの少しでも真実を混ぜ込むとよりいっそう真実のように相手に信じさせることができるのだが、ここ1年で物事を楽観的に見られるようになったのばらはわりと、かなり楽しんではしゃいでいた。
「食べる前からそんなに喜ばれてしまうと、ややプレッシャーですね」
そう言う観月も、その視線が少し落ち着きが無いように感じてのばらは頭を傾げる。
木更津淳はいつもポーカーフェイスでのばらよりも感情を隠すのが得意だが、観月はいつも顔にすぐ感情が出てきてしまう。あくまで本人は気付いていないようだが。
今、密室で二人は何かを隠している。のばらは既製品のチョコレートをどうやって誤魔化し通すかだ。観月が何を隠しているのかのばらは悟られぬよう紅茶を飲みながら肝脳を絞る。
――フォンダンショコラに何か混ぜた……とか? そんなまさか、動機が……
「もう少しで卒業式ですね」
「そうだね……寂しくなるね」
――わたしと離れるのが寂しくて心中……なんてそんなわけないし
「君はこれから、もっと高いステージの上に行ってしまうのでしょうね」
「そんなこと」
「君には溢れんばかりの才能がある。積み重ねてきた時間と、うちに秘めた大きな可能性が。でもボクは愚かにも、君の手を放したくないと……願わくば、永久(とわ)に君と……」
熱い眼差しに思わず胸が甘く疼くが、同時に「永久」という言葉がやけに頭に刺さる。
――永久って……永久って死とかそういうやつじゃないよね……そうだよね、はじめくん殺人なんかするような人じゃないし考えすぎだよね……
「君は……違うのですか?」
「えっ……」
「ふふ、そんなに驚かなくても。冗談ですよ。ボクも君が好きな事を好きな様にして輝く事が楽しみなんですから」
2月14日16時02分。
タイマーの音に観月がソーサーにカップを戻す。
バラ柄のミトンは自前の物だろう。手際よく皿に移して何やら怪しげな赤いソースで皿を飾る。
「さあ、できましたよ」
「わーい、美味しそう!」
テーブルの上に、これまた自前のバラ柄のランチョンマットと装飾の美しいカトラリーが並ぶ。
最後に置かれたフォンダンショコラはまるでプロのパティシエのような出来だ。チョコレートとフルーツのような甘酸っぱい香りにもう死んでも良いかなと一瞬思ったところで、観月が笑顔を絶やさないまま椅子を通り過ぎていく。
座らないのだろうかと目で追うと、彼は出入り口のドアの鍵をガチャンと閉めた。
「さあ、冷めてしまいますよ」
振り返る観月の笑顔には明らかに何か怒っているような焦っているような感情が混じっていた。
「い、いただきます……」
恐る恐る一口、表面のサクッと焼けた部分を口に運ぶ。ふわりと漏れ出すまだ熱いショコラの香り、ほろ苦く飽きの来ない味。二口目はとろりと溶け出たチョコレートが絡んで更にしっとりと舌触りも良い。
「どうぞ、そのソースも絡めて」
「うん」
言われるがまま、フォンダンショコラのブラウンを引き立たせるように皿を飾り付けていた紅色のソースを絡め取る。フルーティーな香りに食欲がそそられ、一口、また一口と手が止まらなくなる。
温かくて、ほろ苦く、何よりも優しい。観月が自分のために用意してくれたことが何よりも嬉しく、愛情を隠し味になんてありふれた言葉の意味がよくわかる。
「美味しいっ! 美味しいよはじめくん!」
ますます市販品のチョコレートを持ってきたことが恥ずかしく、情けない気持ちになってしまう。一ヶ月も前からカタログを見比べて買いに行ったのだ。そんな時間があったのなら菓子づくりの練習がいくらでもできたに違いない。
「そうですか、美味しいですか」
「わたし、こんなに美味しいフォンダンショコラは初めて」
「それは良かった。ええ、本当に良かった」
観月の顔から消えない焦燥にまたひやりと指先から冷える。食べ終えてしまうと、観月はのばらに笑顔を向けたまま微動だにしなくなってしまった。
――どうしよう……体の異変といったら……動悸?
しかしのばらは観月といるといつも胸は高鳴り熱は上がる。ぼうっとしてしまったりなどは日常茶飯事だ。
「ごちそうさま」
「お粗末様です」
「……えっと……お皿洗おうかな〜」
「いいえ、君はそこに座っていてください、後片付けはボクがしますから……何か準備など必要なご様子ですからね」
「準備? 準備って何の?」
「何って……帰り支度です! 帰る準備でもしたら良いんじゃないですかっ」
あからさまに不機嫌になってしまった観月にあわあわと狼狽えて、黙って洗い物をしている彼の周りをうろちょろと歩き回る。
「はじめくん、ねえ、はじめくん、ばずめぐん、はずめぐんフォンダンショコラ凄く美味しかったよ、あのね、えっとね洗い物やっぱり手伝わせて! お願いすます!」
「結構です!」
「はずめぐん……あ、あの、今日も凄くかっこいいね、髪型決まってる……あっハンカチの柄も素敵! 気合入ってるね!」
「ええそれはもう気合を入れて来ましたからね! 君に本命チョコをあげるために!」
「とてつもなく美味しかったです! はじめくん世界一素敵な紳士! わたし、はじめくんのためならなんでもしちゃーう!」
皿をすすぎながら、ぷいっとそっぽを向いてしまった観月にハハと乾いた笑いを漏らしてのばらは渋々自分の荷物を持ち上げた。
男とは、一人になりたい時もある。あらゆる物語でそのように描かれているのをのばらはよく覚えていた。
「帰り支度済んだから……」
そう言ってドアに手をかけると鍵がかかっていて開かない。そういえばさっき閉めていたなと思い出して鍵に手をかけると、袖まくりをしたまま観月が慌てた様子で追いかけてきた。
「待ってください!」
まるで本当に帰ると思っていなかった様子で、のばらとドアの間に割り込むとチラリと視線をトートバッグに向けた。
しまった、とのばらはトートバッグの中のチョコレートを隠す方法を考えるが今はまず不自然にトートバッグを意識しないようあえて隠さない。
「はじめくん?」
「洗い物、まだ終わっていないので」
「ここにいていいの?」
「ええ、はい」
さっと身を翻して流し場に戻るその背中を見守る。観月がこちらを見ていない間に、トートバッグの中のチョコレートを通学バッグに、代わりに家庭科の授業で最後の出番を終えた裁縫セットをトートバッグに移し替えた。