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ニ月のシンフォニエッタ2
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洗い物を終え、ポケットから手鏡を出して軽く身だしなみを整えた観月が荷物を椅子の上に置いたままのばらの元へ戻ってくる。
「のばらさん、今日は随分と荷物が多いようですが」
まるで核心に迫ってやったというような自信有り気な不敵な微笑み。ついさっきまであれほど怒っていたのに、洗い物をすることで心を落ち着かせたようだった。
しかし先手を打ったのばらの方だ。何も焦ることなく頷き、そのトートバッグの口を広げた。
「今日でお裁縫の授業終わりだったから、持って帰ろうと思って」
「……なるほど」
観月の指が自身の髪をくるくると弄りだしたのをのばらは見逃さない。
何かを思案させ、思考を重ねさせてしまうとのばらに勝ち目はない。観月は狡猾でずる賢く、うまく都合の良いシナリオを組み立ててしまうことをのばらはよく知っている。
のばらは観月がトートバッグを開けさせたことから、チョコレートに毒を持ったとかではなくただバレンタインのチョコレートを出させようとしていると確信する。市販のものを買ってきたことは何とか隠し通し、手作りしたが失敗して間に合わなかったという設定にしてやると決め、そしてあえてそれを自分からアピールしない道を選んだ。
わざわざ手作りしたけど失敗したなんて言って、根掘り葉掘り何を作ろうとしたかなど聞かれると嘘が簡単にバレてしまい困るのだ。のばらはレシピもオーブンの使い方もいまいち知らない。
この状況においてのばらは「失敗したことを隠している」を演じきらねばならない。
「はじめくんはお料理上手だね」
「いえ、それほどまでではないですよ」
「お菓子以外も作れるの? カレーとか」
「簡単なものでしたら、レシピさえあれば一応……さすがにカレーライスをスパイス集めからやるというのは無理があるかもしれませんが……やや興味はありますね」
今頃観月の頭の中はカレーライスの事でいっぱいだろう。そしてそこから赤澤を連想させてしまえば、うまく時間を稼げる。別れ際にあたかも料理に失敗したと装うためにオーブンの焦げた臭いの取り方など軽く聞けば良い。
――わたしは勝てる!
「で、のばらさんはバレンタインチョコは何個貰えましたか」
のばらは内心思わずひっくり返って泡でも吹きそうだったが、その場に応じて適切な反応を演じ分けて相手に返す事に関してはプロといっても過言ではない。
のばらは大きな目を見開いて、初めて聞いたようにその言葉を反芻した。
「ちょ……こ……?」
当たり前だがそんなものが通用するわけがない。
「とぼけないでください。ボクはゼロ個ですよ、ゼロ」
「嘘、観月はじめともあろう人がゼロなわけがないよ」
「すべて丁重にお断りしました」
「そっか……」
「君はそれはそれはたくさん貰ったでしょうね、演劇部の王子様なんですから」
その殆どをポテチを片手に飛び跳ねる友人に食べられてしまったのだが、たくさん貰ったというのは事実だった。
誤魔化すように笑いながらドアの鍵に手を伸ばすと、素早く観月の手が伸びてきてしっかりと手の甲から包むように握られてしまう。
「のばらさん、どうしてそんな意地悪をするんです。淳くんたちにはあげたのでしょう」
「証拠は」
「淳くんと柳沢くんがボクに自慢しないわけがないでしょう!」
自慢、という言葉にのばらは思わずぎょっとして顔を上げる。真っ直ぐ観月の顔を見ると、あからさまに不機嫌な顔がそこにあった。
「どんなチョコだった?」
「写真も送られてきたんですよ! パリの有名なパティスリー! 日本には1店舗しかない! 普通あんなの義理であげますか!?」
「ああ……ああ……そっか……バレてた……わたしがお菓子一つ手作りできない……愛情のない女と」
「は?」
バレてしまったからには仕方ない。通学カバンに無理矢理押し込んだショコラの箱を出すと、観月の瞳がキラキラと輝き出す。ついさっき木更津の手にあった箱を睨(ね)めつけていた、永久凍土も青褪めるような目とは正反対だ。
拍子抜けして、その嬉しそうに箱を受け取る観月を見つめる。杞憂とはまさにこの事だ。
クリスマスプレゼントを渡した時と同じ、溢れんばかりの嬉しそうな顔。観月はいつもこうやって感情を隠さず顔に出してくれる。不機嫌な時なんかは離れて見てもわかるほどだが。
「手作りじゃなくて、その……」
「君がボクの事を想って用意してくれたというだけで、これ以上に嬉しい事なんてありませんよ。ボクがフォンダンショコラなんか作るからプレッシャーをかけてしまったんですね……悲しい思いをさせてしまいましたか?」
「ううん、はじめくんがわたしのために作ってくれたフォンダンショコラ、世界一美味しくて幸せだったよ」
一度帰り支度をしたのにまた上着を脱いで椅子に腰掛ける。また観月が上機嫌に紅茶を入れ、正面ではなく隣に座って互いの膝のあたりをくっつける。
いつかまたこうやってバレンタインを迎えることができるのだろうか?
「ホワイトデーの頃には、もう卒業しているんだね」
寂しく、小さく呟く。自分で選んだ未来だというのに、もう何度こうやって心を沈ませたのだろう。
それでものばらは思い描いた理想の自分の姿を追いかけずにはいられない。いつか胸を張って観月の前へ立つために、また追われる存在になるために。観月の眩しく輝く瞳をのばらは諦められない。
この世の誰よりも愛されるため。愛されなければ、弱い自分に勝たなければ生きる意味がない。