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声からの逃走
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大学の学園祭にテニスサークルのメンバーとして出店参加したものの、入学時から度々アプローチをしてくる女と、わざとらしくその女と二人きりにさせようとしてくるとりまきに嫌気が差していた。
その女子学生に想いを寄せている別の男に上手く役を交代してもらい、屋台の裏でひたすらタピオカを茹でる。
ミルクティーは手間を省いて、結局市販のものを使う事にしたが、もちろんはじめの口には合わず、持ち帰りたくないのでどうにかして全て売りさばきたかった。
湯を吸ったタピオカを入れてはミルクティーの味が薄まるのは当然のことで、冷水にも溶けるというミルクティー味の粉末を加えて売る事にした。意外にもサークルメンバーには好評だった。しつこいようだがはじめの口には合わない、チープな味なのだが。
2時間ほどしてシフトチェンジの時間が訪れる。例の女子学生から逃げるべく急いでその場を離れるが行く宛もない。
後片付けの時間まで図書館にでも避難をしようと、わざと遠回りをして人目のない裏道を使う。学園祭とは断絶されたような静かな裏道。そこで若い女性が地図を手にキョロキョロと周りを見ていた。
サングラスで表情がわからないが、その様子からして道に迷っているのだろう。この裏道を通るのはよく図書館に行く学生だけで、一般客や入学から間もない者は迷ってしまっても仕方ない。
「何かお探しですか?」
声をかけると、女性は地図から顔を上げて観月をじっと見つめる。
品のいい落ち着いた紅色のルージュ、滑らかで美しい肌とつややかな髪。あまりにも整いすぎた顔と、質の良さそうな衣服にブランドの靴……。
まさか、そんなはずがないと自分に言い聞かせるが、高校生の時に山形でのばらと出くわした時の記憶が鮮明に蘇ってくる。
女性はサングラスをゆっくりと外し、愛らしい目元を晒して微笑んだ。胸が激しく鼓動を鳴らす。また彼女の夢を見ているのだろうと、はじめは一度目を瞑ってから再び大きく見開く。
「のばらさん……どうして」
「今日学園祭って言ってたから……来ちゃった」
激しい動悸に熱い息を吐き出す。冷めた空気を取り入れねば、肺が溶けてしまいそうだ。
「地図……探していたのは」
「はじめくんのタピオカ屋さん!」
サングラスをかけ直して側に寄って来るのばらから、ほのかに花のような香りが漂う。
以前にも感じたことがある甘い香りだ。
最後に二人で会ったのは高校二年生の時で、それからは会話できるような会い方は出来ていない。
舞台を観に行ったところで、のばらに大きな観客席に座る一般人のはじめのことなど見えないだろう。
「タピオカなら、美味しいお店で飲んだ方が良いでしょう」
「はじめくんの手作りなら何でも好き」
「んふ。相変わらず、あなたはお上手ですね」
会うのは久しぶりだが、度々連絡を取り合っているから変に緊張などもせずすぐに笑って話ができる。
二人でいてこれほど幸せで自然に笑ってしまう相手は、はじめにとってのばらしかいない。
のばらがはじめを見上げたままゆっくりと手を伸ばす。はじめの手の甲、指の関節となぞって指先に触れた時、水をさすような女の声が上がった。
「はじめくん! どこぉ?」
のばらの手がさっと引っ込んで、はじめから明らかに距離を空ける。はじめはその引っ込められた手を握り、声の聞こえた方向とは逆へと駆け出した。
されるがまま一緒に駆けてくれるのばらの靴音に、なるべく長距離にならぬようにすぐ側の学部棟に入る。
古いせいか少し薄暗くも思えるそこは、人こそ少ないが一応いくつかのゼミやサークルが何かしらの出店、展示を行っているようだった。
女の声がしなくなった事に上手く撒けたと安堵の息をつき、のばらの顔を見る。サングラス越しにうっすら見える少し不安げな二つの瞳に、先ほど追いかけてきた女への苛立ちが膨れる。
「良かったの? 逃げて」
「いつも逃げているので」
「……彼女じゃないの」
「な、なにをっ! 違いますよ!」
納得いかなさそうな寂しそうな顔にはじめの心まで痛んで眉を寄せる。堂々とあのままその場にとどまりのばらを恋人だと紹介したところで、あの女子学生が嫌がらせまがいの行動に出ないという確証が無かった。
軽はずみに盗撮されて、誹謗中傷と共にインターネットで情報を拡散されることを考えるとのばらを見つけられては困るのだ。
「ちょいと、そこのカップル」
不意に声をかけてきたのは黒いローブを纏った女子学生だった。その姿からしてオカルト研究サークルの誰かだろう。
「占い、今なら1人たったの50円ですよ。カップル割り引きね」
データを重んじ、オカルトや占いといった非科学的なものにあまり興味のないはじめだが、楽しげに話に乗るのばらの為に仕方なくローブの占い師の後を追う。
アンティークショップで見かけるタロットの絵柄には好感を持っているし、占いを嗜む者の洞察力などへの興味もあった。
カーテンは閉められ蛍光灯も切られた室内は、蝋燭やランプと言った小さな光がうっすらと照らしていた。
百円玉を貯金箱に入れると占い師が何やら合図を送り、別のローブの学生が紅茶を運び込む。それはテニスサークルのタピオカとは比べ物にならないほどまともで、ティーセットも有名なブランドのものだ。
「おや、ダージリンですか。良い香りですね。このカップも実に素晴らしい。占いではなく紅茶愛好サークルでも開きませんか」
「オカルトといえば英国。英国といえば紅茶。これはただの延長線……。さて、趣味の合いそうなお兄さんはうちの生徒で、お姉さんは社会人で……有名人さんですね?」
のばらが問いかけに肯定してサングラスを取ろうとすると、ローブの女は笑いながらそれを止めた。
「大丈夫、大丈夫。占い師は口が硬いのです」
ああ、のばらの正体がわかっているのかとはじめは少し警戒してローブの女を見つめる。まさかこんな場所にいるわけがないのにと驚きもせず、淡々と喋るその女は見た通り変わり者のようだ。
のばらがあまりにも素直に占い師の話を喜んで聞くものだから、まあ良いかとはじめも紅茶を飲みながら心地よいアロマの香りに警戒を緩めていく。
人目がなく過ごしやすいその空間は時間を潰すには丁度良かった。