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歪んだ夜明け前の話
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音も無く、静かに忍び寄る蜘蛛のように累がやって来る。
累が名前のもとを尋ねるたびに与えられる食事と接吻の優しい感触や言葉に、いつの間にか手足を拘束されていることを酷いことだとは思わなくなった。
それでも、時折機嫌の悪い累に唇を噛まれる時だけは痛みから体を強張らせてつい逃れようと身をよじってしまう。
「ねえ、どうして逃げるの?」
手首に食い込む糸の力が強くなり、顔の動きも封じようと名前の唇の間に入り込み猿轡となる。
「君がいけないんだよ。僕を拒もうとするから」
がっちりと固定された名前の耳元に唇を寄せた累の怒りに震える声が、少しだけ恐ろしくなって声を上げると胴体にも腰にも糸が絡みついてさらに拘束が激しくなっていく。
「ねえ、君は僕の何なの? 君は姉さんでも妹でもない。君は特別なんだ。ねえ君は僕の何なの? もっと強く縛り上げないと君も姉さんだったあれみたいに逃げだすんだろう」
一方的に話し終わった累の唇が、歯が、舌が名前の首筋を伝う。
焦燥したような手付きで曝け出された鎖骨に音を立てて接吻をして、舐め、そして強く噛み付く。
「痛いよね? もう痛いのは嫌だろう? 僕を見捨てないで、僕のそばにいて、僕を拒まないで」
まだ糸に引っかかった服でなんとか暴かれずにいる胸元に累が顔を埋める。それからいつか名前がしたようにこめかみの辺りを擦り付けて甘えるような仕草をする。
「ん、んん」
猿轡の内側に閉じ込められた声で累の名を呼ぶと、聞き取りづらいその声でも不思議と通じたのか累が名前を見上げた。
「何? 名前」
ただ名を呼んだだけで累の感情が落ち着いたのか、シュルシュルと猿轡が解かれていく。累は逃げられないようにと糸ではなく手で名前の肩を軽く押さえた。
つい先程まで痛めつけられていたのにも関わらず、狂おしいほどに愛おしさが溢れて少しだけ自由を取り戻した顔を精一杯累の方へと乗り出した。
ほんのもう少しで累の柔らかい唇に触れられそうなのに叶わない。
「名前から、僕に口吸いしてくれるの?」
少し前まで怒りに血管の浮きだっていた累の顔が、今度は嬉しそうにくしゃりと無邪気な笑みを浮かべて待ちきれないように手を名前の背中に回して蠢かせた。
その指の動きに合わせるように名前の手首や足に巻き付いていたものも全てが退いて、久しぶりに床に自分の力で立つとうまく力が入らずふらついてしまう。
累は微笑んだまま大切そうに名前を抱きとめて床に一緒に向かい合うように座ると、期待にキラキラと輝く瞳で名前の眼を見つめた。
互いを絡め取るように混じり合う視線に体の芯がジュクジュクと疼いて、吐息混じりに累の名を呼ぶと彼はそっと瞼を閉じた。
ゆっくり、形を確かめるように累の唇を自分の唇で啄んで何度も何度も角度を変えて繰り返す。
やがて累の方からももっともっとと求めるように唇を食まれて艶めかしい声を漏らすと、一度累が何かを堪えるような顔で距離をとった。
「名前はずっと僕のそばにいてくれる?」
初めて名前の意思を気にしたような累に名前は強く頷いて累の頬に自分から手を沿える。
「わたしは累が大好き。わたしも累のそばにいたい、ずっとずっと」
「名前、それなら君は僕のお嫁さんだね。親兄弟とは違うけど君も僕の家族だ」
「わたしが……お嫁さんで良いの?」
「うん、名前じゃないと嫌なんだ」
また噛み付くように累の口が開いて名前の唇を覆う。しかし痛みを伴うようなことはせず、舌で唇の溝をなぞって名前にも口を開けるようにせがむ。
思わず腰を浮かせて口を開くと、累のとろりと湿った舌がまるで貪り食うように名前こ口の中を荒らしていく。
柔らかく表面がざらりとした舌の感触を自らの舌に感じた刹那、累の手が名前の肩を強く押して畳に押し付けた。
両手を名前の顔の横についてさらに深く舌を潜らせ、吐息を溢し、舌を舌で絡め取って吸い取り累自身の口の中へと誘っていく。
手を繋いで横たわったまま接吻以上のことはせずに体をただまさぐり合うように絡めて朝を迎える。
服を着たまま初夜を終えた鬼の花婿と花嫁はただ幸せそうに額を合わせてまた自由な夜を待った。