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幸せな夜の話
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外に出る時、累は姉役のそばにいる事が多かったという。
ヒトが迷い込むと父親役か母親役が始末することが多いが、様子を伺いに出る時には姉役の鬼の後ろを歩くのだ。
ヒトであった頃の記憶を失い、ただ家族に守られたい愛されたいという願望だけが歪んだ形で残ってしまったように見える累の行動は、同じように鬼として過去を忘却した名前からしても異常に思えた。
ままごとのように空の皿を食卓に並べて家族が集合する中、累を除いて一人だけ容姿が生まれ持ったものに近い名前を姉鬼は気に入らないようで目も合わそうとしない。
姉と兄は累の望みを比較的うまく叶えてはいるように見えるが、それは恐怖による支配というだけで累を心から愛してはいない。それはまだ家族の一員になって一番時間の浅い名前から見ても同然だった。
怯えながら過ごす彼らも不憫だが、何よりも紛い物の家族に囲まれる累が可哀想でたまらない。
――わたしだけは違う、わたしだけは
「名前、一緒に散歩をしようか」
にこりと笑う累に名前が頷くと、姉鬼は皿を片付ける手を一瞬止めた。しかしすぐに母鬼と片付けを再開してその場を立ち去る。
先に立ち上がった累に手を優しく引かれて立ち上がる。外に出ると、濃紺の雲の裂け目から月が美しく輝いて見えた。
どこか目的地があるようでスタスタと歩き進める累に遅れをとるまいと駆け足で進むと、朽ちた木が月明かりを浴びて一際目立つ空間が見えてきた。
木の葉が影を作っていないその一ヶ所はいつだか昔に昼を忘れた名前にとっては眩しくも感じる。いつから自分は鬼だったのか、ふと思い出せないことに気付くがそんなことはどうでもいい。
小虫が月光を反射しながら舞うその場所にはいくつか名の知らない花が咲いていた。その一輪を累はもぎ取って名前に手渡す。
「ありがとう、累」
受け取った花を髪に差すと、累が満足げに微笑み名前の頰を指先で優しく撫でた。
これは合図のようなものだ。
目を瞑ると唇にふにゅっと柔らかいものが触れる。累の長い睫毛が自分の目の近くを撫でてくすぐったい。
両手を広げて累の背中に腕を回すと累も同じように両腕でしっかりと名前を抱きしめた。
唇が離れたので目を開けると累が額をぴたりと名前の額に合わせてくるので、その大きな彼の目を見つめる。累は切なげに目を細めると、自分から一歩下がってそっと名前を放してしまう。
「累?」
「………名前は人間だった頃の記憶ってあるの?」
そう言いながら朽木に腰を掛けた累に名前はかぶりを振った。
「全然……累は?」
「覚えていない。でも時々、名前といると……俺、何か」
揺らぐ累の瞳に、名前は思わず手を彼の頭に伸ばしてそっと撫でてみる。累は怒ったりせず、大人しくそれを受け入れて瞼を閉じた。
されるがままになっている累の耳元に名前は唇を寄せた。
「つらい事は忘れてしまって良いよ」
名前の言葉に小さく頷き、累はうっすらと目を開いて狙いを定め、名前の頬に優しく口付けた。
「隙だらけだから」
「累……」
きっと自分も同じように何かつらい事とともに大切なことを全て忘れてしまったのだろう。
生きて生きて、人間を食べる度に記憶は更に薄まっていく。思い出そうとする機会が減っていく。
思い出しては食べられない。今、人間はただの食べ物だ。
――今はただ累、あなただけいればいいの