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寂しい夜の話
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鬼舞辻に呼ばれて山を下る累は、名前を決して逃さまいと糸を使って拘束する。
磔ではなく両手首を背中の方で、両足は太腿から足首までそれぞれぐるぐるに巻いて床に転がした状態だ。
名前が暇つぶしにボロボロに傷んだ畳の目を数えていると、累の姉が部屋に入ってきてひゅっと息を飲んだ。
「何か御用でしょうか、義姉さん」
名前は累以外の鬼が好きではない。鬼は本来群れたりなどしない。
「る、累に時々様子を見るようにって言われたのよ……あなた、累に相当気に入られてるのね」
累に似せられた容姿の美しい義姉の顔を見ているのはいい時間つぶしになる。
ぼんやり眺めていると、姉鬼は気味が悪そうに表情を歪めるが、累のお気に入りの名前に媚を売る方が良いと判断したのだろう可愛らしい愛想笑いを浮かべた。
「何か困ってる事はない? それを解くこと以外で私にできる事があったら言って」
「いいえ、今は大丈夫です」
「そう、何かあったら呼んでね」
夜闇が深くなった頃、名前の視界に白く可愛らしい足が入り込んだ。
できる限り見上げると、ふわりと袖を揺らして累がしゃがむ。
「累、おかえりなさい」
「ただいま。今解いてあげるね」
累に触れられたところから糸が解れていく。自由を取り戻して行く感覚を特に何もせず受け入れていると累の手が突然ピタリと止まった。
「血が……」
言われてみれば細い糸で手首を少し切ってしまったような気もするが、出くわした鬼狩りに腕や脚をやられた時に比べれば特別騒ぐような痛みではない。
「どうして? ねえどうして、姉さん、姉さんがちゃんとしないから名前が怪我をしたじゃないか」
「累、落ち着いて……」
「姉さん、姉さん」
怒りを抑えられない累の呼ぶ声に駆けつけた姉鬼が上ずった声で返事をする。
「る、累、だって名前を縛ったのは」
「だから様子を見ておいてって言ったんだ。なのに姉さんは自分の役目も果たさずに……」
「累、お義姉さんはちゃんとしていたよ、わたしが気付かなくて言わなかったの。ごめんね、累。わたしが悪いの、だから落ち着いて」
もう血など止まった腕に累を後ろから閉じ込めてその手首を彼に見えるような位置にやる。
「ほら、もう治ったよ。累、今日はおつかれさま。もう今夜はゆっくりしよう、ね?」
怒りが収まっていくように、殺気立って強張っていた累の肩から力が抜けていく。
頷く累を見て、安堵したように眉間のしわを解いた姉鬼に目配せをしてその場を去るように促す。
一度瞬きをして夜闇に紛れるように彼女が去ったのを見届けて、名前は累を抱く腕の力を少し緩めた。
「累、こっちを向いて」
腕の中で素直に踵を返す累をまた抱き直して、後頭部のふわふわと柔らかな髪を撫でながらその肩に自分の顎を乗せると、累もくっつくように名前の方に頭を傾けた。
「名前は僕がいなくて寂しかった?」
「うん、寂しかった。義姉さんなんかよりわたしに構ってほしくて……邪魔をしてしまってごめんなさい」
「いいよ、僕も名前と一緒にいたいから」
すりすりと頬を擦り寄せる累に愛おしさが募って止まない。その感覚になんとなく名前は覚えがある。
名前は以前にも誰かのふわふわとした髪を撫でたことがある。
――まだ人間だった頃、こうやって累を抱きしめた事があるような気がする。そんなこと、ありえないのに。
累が名前から自分の頬を離して耳たぶを唇で挟んだのに思わず息を零し、仕返しに累の耳たぶにも同じ事をする。
くすぐったそうに笑う累が可愛くて今度は頬、口の端、鼻筋にも唇を触れさせると、累も負けじと名前の眉尻や顎の下に唇を押し付けた。
やがて見つめ合って手を繋ぐとうっとりと熱っぽい累の瞳に瞼が降りて、優しく唇を塞がれる。
情事など接吻しか知らない二人はそのまま何度も同じ触れ合いを繰り返しながら朝を迎える。
この時ばかりはおぞましい朝が雨戸の向こうで暖かく二人を出迎えているようだと名前は思った。