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睡蓮花 1
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ずっとずぅっと逃げていた。
自分のことが何もわからないから、自分のことを誰も知らない場所に逃げ続けてきた。
そうしてたどり着いたこの場所で、漸く私は私を終えることを決めたのだ。
だから、そのために。
―――私は、勝たなければ。
+ 睡蓮花 1
幼いころから、イオンは人の声が苦手だった。
とりわけ母親の声が怖くて、実の母親にもかかわらず怯えて暮らしていた。
そんなイオンの心の拠り所はポケモンで、近所に住む少し年上の少年がくれたヒトカゲと一緒に居る時間だけがイオンの心を安らげた。
その少年は時間を見つけてはイオンにポケモンについてを教えて、ポケモンバトルのノウハウを指南してくれた。
人の声は相変わらず苦手だったけれど、彼の声だけは怖くなかった。
けれどそんな彼にも云えない秘密をイオンは持っていた。
ずっと昔に母に云ったら、気味が悪い冗談はやめろと云われたことで、あれ以来誰にも打ち明けることのなかった秘密。
子供特有の妄言だとイオンの母は思った。
だから相手にしなかったし、本気になんてしなかった。
『おかあさん、わたし、ポケモンのことばがわかるんだよ』
* * *
ガラル地方でのジム戦というのは、他の地域と一線を画している。
ポケモントレーナーになって順番どおりにジムに挑戦していくところまでは他地域と同じだが、年に一度と期間が決まっていること、ジムバッジすべてを集めてもすぐにチャンピオンに挑戦できるわけではなく、トーナメントで勝ち上がって初めてチャンピオンと対戦できることなど、細かいところも含めて特殊と云えるかもしれない。
基本的にはトレーナーであれば誰にでも参加資格があり、他地域出身者にも関係なく参加は認められている。参加に推薦状が必要なのは敷居が高いかもしれないが、他地域のジムバッジを所持していれば委員会から推薦される仕組みだ。
ただしガラルはポケモンの育ち方も特有なため、それを熟知している地元トレーナーのほうが勝ち上がりやすいというのはあるが、現にジムリーダーのカブはホウエン地方の出身だが立派にガラルでジムリーダーを務めあげている。つまり努力次第でどうにでも出来ると云うわけだ。
ダンデがチャンピオンになってからすでに数年の月日が流れていた。
ジムチャレンジで勝ち上がってくるトレーナーは、バッジを全部集めるだけあってそれなりには強い。
が、結局はそれなり止まりだった。
ダンデが求める熱く滾るバトルが出来るようなチャレンジャーは、残念ながらここ数年いない。最大のライバルであるジムリーダーのキバナとのバトルが一番盛り上がれる。
そうして今年も始まったジムチャレンジの中で、ジムリーダーの間でひそかに話題になっているチャレンジャーがいると聞き、ダンデは俄然興味を持った。
他地域出身の女性トレーナーで、ゆっくりとだが着実にジムを攻略しているらしい。手持ちは固定で5匹、相手に合わせてポケモンと戦術と変えてくる柔軟さが評価されているそうだ。
現在バッジの所持は6つだが、まだスパイクタウン周辺に現れたという話は聞かない。あくタイプのジムリーダーは珍しいため、どこかで攻略の準備をしているのだろう。そのことからも、用意周到な様子が窺える。
ジムチャレンジでバッジすべてを集めても、まだチャンピオンカップ、さらにはファイナルトーナメントが待っている。そこでは本気のジムリーダーが相手になるわけで、そうなると勝ち上がるのは至難の業と云ってもいい。運だけではどうにもならない場所だ。
噂の彼女がどこまで勝ち上がれるかはわからないが、ダンデは彼女が自分のところまでやってくればいいと思う。
会ったこともない。
バトルもまだ観たことはない。
大会運営委員会に云えば記録を観せてもらえるだろう。けれどここまで来たら自分が戦うときに初めて見てみたいような気がして、わざわざ他のジムリーダーに話を聞くこともしなかった。
正直に云えば最近のチャレンジャーは強いと云ってもまぁまぁ強いというだけで、闘い甲斐が全くなくて退屈していた。チャンピオンと云う立場上、勝ち上がってくれば相手はしたが、どうせならキバナやネズあたりの本気を出して戦える誰かが上がってくればいいと常々思っていた。だって仮にチャレンジャーが勝ち上がってきても、すでにトーナメントで力を出し尽くしていてボロボロになっている。そんな相手に全力ではぶつかれば、きっと相手はトレーナーを辞めてしまう。
けれど、彼女ならば、という確信に似た何かをダンデは感じていた。
きっと彼女は、自分が本気で戦うに値する相手になるに違いない、と。
ところでダンデは方向音痴だ。
相棒のリザードンがいないと、決断力を持ってとんでもない方向に行ってしまうため時折行方不明になることで有名だ。ファイナルトーナメント中はさすがに周りも目を光らせているが、単なるジムチャレンジ期間までは手が回らない。
「うーん、迷った!」
そんなわけでチャンピオン・ダンデ、ただ今絶賛迷子中である。
頼みの綱のリザードンは今調整中でポケモンセンターに預けてあり、ちょっとそこまで散歩に出かけるつもりで走り出して、気付いたらワイルドエリアにいた。ちなみにもともといたのはシュートシティである。嘘みたいなホントの話なので笑えない。
こうなるともう一人で帰るのは無理だ。誰かに助けてもらうしかない。自分が方向音痴である自覚はあるため、その辺りのプライドとか見栄はとっくに捨てているダンデだった。
頑張れば今日中にシュートシティまで戻れるだろうか。急ぎの仕事はないが、何も云わずに出てきた手前早めに戻りたいダンデは、辺りを見回し誰かキャンプでもやっていないか探すことにした。この時期はワイルドエリアでレベル上げに勤しむトレーナーも多いので、実はあまり心配はしていない。
すると幸いすぐ近くで焚き火の炎が上がっているのを見つけ、よしラッキーとばかりに一直線に向かう。これ以上迷ってはいけないという野生の勘が働いたのか、その焚き火まではなんとかまっすぐにたどり着くことに成功した。
一応辺りに危険なポケモンがいないかだけを確認して、ダンデは茂みから飛び出した。
「キャンプ中にすまない、ナックルシティはどっちかわかるかな!?」
ちなみに直接シュートシティまで行こうとしない理由は、第一に自分一人でたどり着ける気がしないのと、第二にナックルシティまで行けばキバナがどうにかしてくれると思っているからである。頼る気満々だった。
巨人の帽子と呼ばれるエリアの隅でキャンプをしていたその少女は、突然現れたダンデに驚いてはいたが、取り乱したりはしなかった。周りには5匹のポケモンが静かに佇んでおり、まるで彼女を護っているようだった。
何をどう迷えばこんなところに迷い込めるのか謎だが、その謎がダンデに解けたらそもそも迷わない。まだナックルシティ付近だからよかったが、エンジンシティのほうまで行っていた可能性もあったかと思うとゾッとしない。
どう見ても丸腰なダンデを少女も含めかなり怪しんではいたが、ダンデの太陽のような笑顔がその不審さを吹き飛ばしていた。周りのポケモンも警戒はしても威嚇はしないことから、ダンデを悪い人間ではないと判断したらしい少女は、小さく息を吐いてから辺りを見回した。
「…アオガラス、おいで」
「カァ!」
少女が呼んだアオガラスは、近くを飛んでいた。
呼ばれて嬉しそうにやってきて、少女のすぐそばに止まると嬉しそうにくちばしを少女に押し付けた。
云ってみればその辺りを偶然飛んでいただけの野生だ。
捕まえてもいないポケモンが何故呼んだら来るのかはわからないが、何やらアオガラスに向かって話しかけていた少女の姿が印象的でダンデは黙ってその様子を眺めていた。
ダンデもポケモントレーナーになって長く、ポケモンとの意思疎通はかなりのものだと自負している。そうでなければ十年近くも無敗のチャンピオンではいられない。ポケモンたちとわかり合っているからこそ築けている地位であるともいえるのだ。
けれど何故か、今目の前でアオガラスと対話している少女は、自分とは全く違うように思えた。
ダンデにポケモンの言葉はわからない。ポケモンの云いたいことをなんとなく読み取って行動することでコミュニケーションを図っている。だから長年一緒に居るリザードンでもたまに全然通じ合えなくて難儀することもあるのだが、この少女は、ダンデの眼にはポケモンと会話をしているように見えた。
何故かはわからない。
パッと見は多くのトレーナーがそうするように同じようにポケモンに向き合っているように見える。
だからこれはダンデの勘だった。根拠は何もない。
そんなことを考えていたからか、少しぼーっとしていたらしい。
アオガラスからダンデに少女が顔を向け、ぱちりと視線があった瞬間柄にもなくドキッとした。
が、細かいことは気にしないタイプなのか、はたまた面倒ごとはさっさと片付けたいタイプなのか、少女はアオガラスをダンデに差し出して素っ気なく云う。
「その子について行ってください。ナックルシティまで連れて行ってくれますから」
「おお、そうか! ありがとう!」
助かった、と冗談抜きにホッとした。
この少女に助けてもらわなければ本気で路頭に迷うところだったのだ。少女は命の恩人と云っても過言ではない。
本当ならお礼をしたいところだが、残念ながら今のダンデはポケモンの一匹も持っていない状態だ。着の身着のまま出てきたので、お礼できるようなものは何も持っていなかった。
が、ふと考える。
「君は、ジムチャレンジャーかな?」
終始にこやかなダンデに対し、少女は無表情のままだった。
随分と暗い人だとダンデは思う。幸か不幸か彼の周りには元気で明るい人間ばかりが集まっていたので、こういうタイプの人間は少々珍しい。
しかしそれを顔に出さない分別だけはあったので、あくまでにこやかな笑顔を浮かべる。
「…そうですが」
対して全力で不審そうな彼女の肯定に、ダンデは笑顔を一層深くした。
ダイマックスバンドはつけていないが、この時期にこんなところでキャンプをするのはトレーナーに違いない。それに誰かが零していた噂のチャレンジャーの手持ちと、今目の前にいる5匹は完全に一致している。
なるほど、これはラッキーだったと思う。もしかすると、今日自分が迷ってここまで来たのはこの出会いのためだったのかもしれない、とすら思った。ダンデは意外とロマンチストだ。
「そうか! じゃあきっと君が噂のジムチャレンジャーだな!」
きっと彼女は自分が噂になっているなんて知らないので、なんのことかはわからないだろう。
容姿も何も知らなかったが、ダンデは彼女が噂のチャレンジャーだと直感したのだった。そしてその直感は見事に的中した。
案の定不審そうな顔を一層険しくした少女に、ダンデは構わず笑顔を向けた。
「俺はダンデ! ガラルの現チャンピオンだ」
「…あなたが」
この時になって初めて少女の表情が動いた。
明るくなったというより、獲物を見つけた猛禽類のような、鋭い目つきになった。
「イオンです」
ダンデが差し出した手を、イオンと名乗った少女はゆっくりと取った。
先ほどまでは元気な不審者としか認識していなかった相手が、まさかガラルで無敗のチャンピオンだったとは。
まさに自分が挑戦中のジムチャレンジの、頂点。目指す人物が、今目の前に。
絶対にそこに行くのだとイオンが改めて心に誓っている傍で、ダンデは全く別のところに密かに感動していた。
細く滑らかな、少女の手。
この手がモンスターボールを投げ、激しく戦うのかと思うとぞくぞくした。
「イオン! 君と戦える日を楽しみにしているよ!」
もしも彼女がすべて勝ち上がって再び自分の目の前に現れたら、その時は最高のバトルをしよう。それが自分が出来る最大のお礼だとダンデは本気で思った。
* * *
イオンの云った通りアオガラスは最寄りのナックルシティまで最短且つ安全なルートで案内してくれ、キバナがいるであろう宝物庫に入るまでしっかりと見送ってくれた。野生なのに何故大人しくイオンの云う通りにしているのか不思議だが、助かったので良しとする。ちなみに仕事を全うしたアオガラスは、まっすぐにワイルドエリアに帰って行った。
狙い通り宝物庫にはキバナがいて、ひょっこりと顔を出したダンデを見て呆れたように息を吐いた。迷子になって帰りにキバナを頼るのは日常茶飯事なのである。
急ぎの仕事はないとのことで、シュートシティまで帰る算段をつけてもらっている途中でダンデは我慢できなくなって意気揚々と口を開いた。
「なぁキバナ。実はな、噂のチャレンジャーを見たぞ」
「お、マジかよ。どうだった?」
「うん、強そうだった」
「へー。確か今ジムバッジは6つ持ってんだろ? はやくオレ様んとこまでこねぇかな~」
「お前とバトルするときは教えてくれ。一度バトルする姿を見て見たいんだ」
「…ふぅん? お前がそんなこと云うなんて珍しいな。もしかして惚れたか?」
茶化すようなキバナの言葉に、ダンデは一瞬ぽかんとして。
ややあって、納得した。
「ああ、そうかもしれない!」
恥ずかしげもなく眩い笑顔でそう答えたダンデに、キバナは顎が外れるかと思った。
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誰落ちかと考えたときはすでにッッッ!!!
誰落ちか決まっているッツ!!!!!!!!
(ダンデさんではない)