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プロローグ 狂気を孕む目に見つめられながら
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私は、家の扉を開け、外へと出る。
それと同時ぐらいに、隣の部屋の住人が偶然にも部屋から出て来た。
そして、つい視線までもが合ってしまったため、無視する訳にもいかず、社交辞令に私は軽く微笑みを浮かべながら会釈をする。
「こんにちは」
すると、どこか顔色の悪いお隣さんは私が軽く会釈してきたのに対し、挨拶で返してきた。
その愛想が良すぎる対応に少なからず、驚きながらも決して表情に出さないように笑顔で感情を隠した私は、お隣さんの社交辞令に答えるため、挨拶だけを返す。
「こんにちは」
本来であれば、社交的に声を掛けてくれた相手には、ある程度、世間話的な会話をしているのだが…お隣さんが『男性』と言うこともあり、私は話したい気持ちを抑え、あまり関わらないように努めた。
それもこれも…先日、捕まったストーカーがまさかのお隣さんだったと言う事件が発端。
警察に捕まった以前のお隣のストーカーさんは、何故、私を狙ったのかと言う質問に対し、『何度か私と世間話をしていく内に、勘違いをしてしまったから』と答えたようで…その後、警察の方から男性には、あまり思わせぶりな態度を取るのはよろしくないと何故か被害者である私が指導を受けてしまったのだ。
だから、私は極力、『男性』とはあまり関わらないようにしようと決めたのである。
―――また、お隣さんがストーカーになったら、それこそ、また警察の人に怒られちゃうし…ここは早々に、立ち去ろう!
自分の身を守るために、私は視線を自宅の鍵穴へと向け、一切、会話をする気がないと言う態度を取り、速やかにエレベーターに乗り込むため、お隣さんへと背を向けて歩み出そうとした…その時だ。
「お出掛けですか?」
そんな話しかけるなオーラを出していたと言うのに、今度の新しいお隣さんは強靭な心臓をお持ちのようで…空気を一切読むことなく、私の背中に問い掛けてきた。
あまり関わらないようにするためにそっけない態度を取ることは出来ても、さすがに問い掛けられた事に対し、返事をしないと言うのも私の中の良心が痛むため、私は相手に気づかれない程度に小さくため息を付いてから、後ろを振り向き、簡潔に答える。
「あ、はい。下のコンビニにちょっとした買い出しに出ようと思いまして」
「それは偶然ですね、僕もコンビニに用があったんです。
ご一緒してもよろしいですか?」
だが、お隣さんはどうにも私の気持ちを汲み取るようなことをしてはくれないようで…お隣さんは、私が断るに断れないような誘いをしてきたのだ。
最早、ここまで相手に絡まないといけないように仕向けられては、逃げようがないため、私は諦めて、お隣さんの望むままに従うことにした。
――これは、私が声を掛けて気を持たせたんじゃない…あくまでも、相手が声を掛けてきたんだから、私は何も悪くない…
「…はい、いいですよ。
じゃあ、行きましょうか」
何度も何度も、自分に不可抗力だと言い聞かせ、関わらないようにとしていた気持ちを何とか切り替えた私は、先程の壁を感じさせる程のそっけなさを取っ払い、お隣さんの誘いに乗った。
そんな私の急な変化に、一瞬、きょとんと驚いたような表情を浮かべたお隣さんだったが、自分の粘り勝ちを確信したのか、意地悪く、どこか不気味な笑みを浮かべたかと思えば、すぐに自分の自宅の鍵を閉め、私の隣へとやってくる。
何とも距離感が近いお隣さんに少し居心地の悪さを感じたのだが…より近くで見た彼が日本人離れした雪のように真っ白い肌と瞳が紫色と言うのを目にしたことで、彼が日本人ではなく、外国人であることを薄ら理解してからは、幾分か居心地の悪さもなくなっていた。
―――外国人の方なら、これぐらいの近い距離感は当たり前だものね…
私の中で、お隣さんとの距離の取り方が何となく掴めた所で、彼と共にエレベーターへと乗り込むため、足を動かし出す。
「助かります。
今、さっき、こちらに来たばかりでしたので」
そんな私の動きに合わせるかのようにゆっくりとした足取りで、共に連れ立って歩きだしたお隣さんは、軽い世間話を自然な流れのように話し始めてきたため、私は彼の作り出した流れに逆らうことなく、話し出す。
「ああ、今日、引っ越しされてきたばかりだったんですか…大変でしたでしょう?
慣れない異国の地で、生活を一からスタートさせるのは」
「おや、私がどうして、日本人ではないと?」
「その雪のように真っ白い肌と…瞳の色、あと今、お召しになられているファー付きの黒いマントに白い軍服、ロングブーツと言う服装がどうも、日本人らしくないなと。
あ、でも、すごく日本語がお上手だったので、最初は日本人だと思っちゃいましたけどね」
「そうですか…それは嬉しいお言葉ですね。
ちなみに、僕がどこの国の者か、わかりますか?」
「うーん…その被られている白くて、とても暖かそうな帽子…ウシャンカは、ロシアの代表的な民族衣装ですから、ロシアの方ではないですか?」
「正解です。
貴女は、随分と素晴らしい観察力をお持ちですね…期待以上です」
「…え?」
今まで途切れることなく、終始穏やかな話を続けていた会話に、突如、お隣さんが意味深な言葉を呟き、怪しげに笑ったものだから、私は思わず、動かしていた足を止め、彼の言葉の意味を聞き返した。
そうすれば、急に立ち止まった私を気に掛けた彼が、怪しげな笑顔を浮かべたままの状態で、私へと視線を向けてきて…
彼の紫の瞳と視線が絡んだ瞬間、背筋に寒気が走り、心臓がやけに逸り出したため、私は一歩、後ろへ下がってしまった。
――何だろう、物凄く、怖い…
何とも言えぬ、恐怖が私を渦巻き、体の自由を奪う。
「いいえ、何でもありません…ただの独り言です。
ああ、丁度、エレベーターが来ましたね。さあ、早く乗りましょう」
そんな見るからに恐怖に慄く私を見た彼は、至極嬉しそうに口元を上げ、私の問いなど一切、答える気がないと言うように誤魔化した後、タイミング良く到着したエレベーターへと私を誘ってきた。
「っ…」
彼がエレベーターへと誘う様は、悪魔が囁いているかのように邪悪で…当然ながら私の頭の中で警告が鳴り響く。
危険だ。このまま、エレベーターに乗れば…きっと良くないことが起こる。
そう、頭で危険を理解した途端、私は目の前の危険から逃げようと慌てて踵を返そうとしたのだが…
「さあ…乗ってください」
逃げる事すら許さないと言わんばかりに、目の前の悪魔がアメジストのように美しい眼で私を捉えるものだから…
「…は、い」
私は、逃げたいと言う自分の意志とは、真逆に彼が誘うエレベーターへと入ってしまったのだった。
――――――
そして、恐怖に慄きながらもお隣さんに誘導されるがまま、乗ってしまった私は、彼と出来るだけ距離を取るためにエレベーターの端へ陣取り、口を開くことなく、ただエレベーターが無事に地上へと辿り着くのを祈っていた。
そんなだんまりの私に合わせてか、それとももうしゃべることも尽きたのか、私と同じようにしゃべらなくなったお隣さんはただ、ぼんやりとした眼でエレベーターがどんどん下へと下がっていくのが数字でわかる画面を見つめていて…
何も言わず、何もしてこないことが逆に私の恐怖を煽り、不思議と体が震え上がって来たため、私は自分で自分を抱き、目の前の恐怖と格闘する。
―――お願い…早く、早く地上に着いて…
必死に、この恐怖から逃れるために、心の中で切に、願いを唱え始めた時だ。
「可哀想に…」
突然、無言の空間にお隣さんのまたもや意味深な言葉が響いた。
また、独り言なのだろうか?
いや、違う…そうだとすれば、あんな同情するような声音で言うはずがない。
あれは、間違えなく、私に向けて言った台詞だ。
「はい?」
その唐突過ぎる同情の言葉に私は、当然ながら呆気に取られ、疑問とも言えぬ声を上げ、相手の真意を見極めるかのようにお隣さんへと視線を向けた。
すると、完全に私を憐れむような目で見ているお隣さんと目が合い…そして、全く意味不明な言葉を並べながら、彼は無遠慮にも一歩ずつ私へとにじり寄ってくる。
「異能のない世界で、とても生き辛かったことでしょう」
彼が近寄る度に、私もまた一歩、一歩と後ろへと下がるのだが…ここは、密室の狭いエレベーターの中、彼から逃げるために下がっても、限界はすぐにやってくる。
2、3歩程、後ろに下がった後、私は壁際へと追い込まれてしまう。
そして、彼はどこか狂気を孕む目で笑いながら、両手で壁をつき、私が逃げられないように囲ってしまった。
――怖い…怖い!
完全に彼から逃れる術を奪われた私は、恐怖のあまり、体を動かすこともできず、ただ、狂気に満ちた彼の瞳を見つめることしか出来なくて…
「私が、貴方を救って差し上げます」
「…な、にを」
「安心してください…楽に逝かせてあげますから」
突如、彼の右手が私の額へと延びて来た…その瞬間。
「っ……?!」
真っ白な彼の肌や、服に鮮明な赤が付着した。
しかも、夥しい程の量の赤が付着しているものだから、彼の白がどんどん赤く染まっていく。
―――あ、れ…何で、赤い?
突然に赤く染まった彼を見て、私は素朴な疑問を持つ。
どうして、彼は突然、赤く塗りつぶされてしまったのか…そもそも、その『赤』は何なのかと。
目を白黒とさせながら、狂気を孕む目を見つめようとした途端。
「ぐぁっ…」
誰かの…否、私のうめき声のような音が耳に入り、また目の前の彼が赤く染まってしまった。
そして、そこで、ようやく私は気づく…。
ああ、この赤は、私から飛び出た『血』である、と。
それに気づいた瞬間、私の身体から一気に力が抜け、目の前の狂い人に情けなくも倒れ込み、彼の胸に抱かれてしまった。
ドクッ…ドク…
やけに嫌な音が、耳に直接響く。
だが、それも…どんどん、音は小さくなり、今まで見えていたはずの視界が一気に暗闇に転じてしまって…
私は、自分の『死』を悟った。
―――ああ、私、死ぬんだ…
何という、最悪な最期だろう。
まさか…こんな狂った人に殺されて、人生を終えるなんて…
――もっと、長く…生きたかっ…
そして、この世をこんなにも早く去らなくてはならないことを憂い、嘆いている内に…私の意識はそこで、失われたのであった。
だから、知らなかった。
「罪の軛より解き放たれ、魂の救われんことを…
大丈夫、何も怖くはありません。
また、あちらでお会いしましょう…瑞希」
眠ったように息絶えた物言わむ私に、愛おしむような声で再会を望む言葉を殺人鬼から掛けられていたことを…
私は、知る由もなかった。
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