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プロローグ 狂人ばかりが立ち憚る世界に救いを
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凪いだように静かな先すらも見えぬ、深い、深い闇の中から突如、耳を切り裂くような甲高い声が響き、『私』の意識が浮上する。
―――あれ、私…確か、狂人のロシア人に殺された…はず
つい先程、私は震え上がる程に殺気を孕んだ瞳を持った外国人の男に痛みを感じる間もなく殺されたはずなのに…何故、『私』と言う意識があるのか、疑問が頭の中を占めた。
てっきり、『死』の世界と言うのは、自分と言う存在がなくなり、ただの無になるものとばかりだと思っていたから、こんなにもはっきりと前世の記憶を持ち、自分と言う人格が残っているとは驚きでしかない。
「きゃぁああああああ!!!」
そんな驚きに呆け、ただ何をするわけでもなくぼんやりと目の前の漆黒の闇を見つめていれば、今度は先程よりも甲高く、そして、命の灯を燃えつくすかのような鬼気迫る悲鳴が鮮明に闇の中を響き渡り、言い知れぬ恐怖が私の心をざわつかせる。
その、あまりにも居心地が悪すぎる現状を落ち着かせるように私は両手を胸に当て、俯きながら、見えぬ恐怖と戦う。
だが…それでも、未だ周囲を木霊する悲鳴が消えることなく、響き渡るものだから、恐怖は一向に消えなくて
――何だろう…この、絶命寸前の悲鳴を聞いていると、嫌に心臓が逸る…?
ドクッ… ドク…
手で感じていて、あまり気持ちのいい鼓動ではない。
それこそ、あの私を殺したロシア人と対峙し、狂気に晒され、恐怖で体が動かなくなった時と同じ鼓動と言える。
まさか、こんな『死』しても言い知れぬ恐怖に身を震わせなくてはいけないなんて…何と、運のないことか。
そこまで、自分の不運を嘆き、何とも言えぬやるせなさから左手で頭を抱えた瞬間。
私は『とある』疑問が浮かび、首を捻ってしまう。
―――あれ、でも…私が、死んだのなら、何で…心臓が鳴る?
死んでいるのなら、もう、鳴るはずのない心臓。
それが、先程、嫌な鼓動を逸らせていたことに私は摩訶不思議さを感じ、確かめるようにまた手を心臓に合わせ、鼓動を確かめる。
ドク…ドク…
そうすれば、間違いなく、心臓が動いていて…私に、小さな混乱が訪れる。
――え、死んでも心臓って動くものなの、か…?
人の『死』は心臓が止まった地点で訪れると言うのが、自分の中の『死』の定義であったが…もしかすると、私が知らなかっただけで心臓の鼓動は死んでも感じることが出来るのかもしれない。
そうだ、誰も死んだ事のことなど教えられる者など、居ないのだ。
そんなだってあり得るのかもしれない。
止め処なく、私の思考があらぬ方向に回り始めた…これも、この死んでいる物の心臓が動いているなどと言う摩訶不思議な出来事のせいである。
私は、一度、暴走し始めた思考を止めるため、大きく息を吸い、吐き出してみた。
そうすれば、幾分か気分が落ち着き、思考がどんどん正常に戻っていくのを感じ、ホッと胸をなでおろす。
―――うん、大丈夫…こんな、死んでいるのに心臓が動いている『死』の世界なんて常識的ではあり得ないと言うのは理解できてるもの。
そう、一度、心臓が止まった人間が『死』の世界で鼓動を感じる訳がない。
鼓動は、その場に『生きている』と言う意味を知らせるもの…死んでいたら、それを打つことすら許されるないのだ。
だとするならば、鼓動をする私は、今、生きていると言うことになる。
あのロシア人の真っ白な服やエレベーター一面を赤く染める程に夥しい血の量を吐いたと言うのに…
――それこそ、あり得ない…あの血の量は、致死量だもの。絶対、助かる筈がない…だけど、今、こうして『私』は、鼓動を打っている、これは、一体どんな状態なのだろう?
正常に戻った思考は、冷静に直近の記憶を元に分析を開始しようとした、その時だ。
「っ…ぃた…」
何も動かず、ただその場に佇んでいただけだと言うのに、突然、私のお尻に地面に打ち付けられたかのような衝撃と同時に痛みが走ったため、思わず、声を出してしまった。
何事かと思い、自分の体や周囲を見渡すが、以前、暗闇の中…私は転んだわけでもなく、ただ佇むだけで、何もない。
だが、その不思議な感覚はお尻の痛みだけに止まらず、次は、喉が焼ける程に痛み始めてしまい、私の頭には疑問符ばかりが浮かぶばかりで…またも首を傾げてしまう。
すると、その瞬間、私の首筋に冷たい何かが伝うものだから、慌てて、首へと手を触れれば、雫が次から次へと私の手を濡らしていた。
何事かと思い、雫の発生源を確認するように流れる方向へと手を探れば、自分の目で…
「…ぁ、れ…涙…?」
そこで、私は、始めて、自分が泣いていることに気づく。
悲しくも、何ともない筈なのに、何故か私は涙腺が崩壊してしまったかのように涙を流し続けていた。
「何…、これ」
止まらない、止まらない。
自分の体だと言うのに、まるで自分のものではないかのように、私の体は全く、私の意思に従ってはくれなくて…先程から訳の分からないことだらけで苛立ちが、私の中を渦巻いた。
「何、なのよ! 何で、止まらないのよ!!」
私は、思い通りにいかない自分があまりにも腹立たしくて、思わず、両手で頭を抱えながら、発狂していた。
そして、発狂した声は、目の前に広がる暗闇の中に、ただ響き渡り、誰にも聞こえることなく、消えていくものだから空しさだけが心に残る。
その空しさは私の心の中心にぽっかりと穴を空け、感情全てを放出し、空っぽになってしまった。
空っぽになった心は、もう、この摩訶不思議過ぎる現象についてを考えることも放棄しまい、思考を停止したら一気に身体から力が抜け、糸の切れた操り人形のように私はその場に崩れ落ちる。
嗚呼、もう、どうでもいい…どうせ、私は死んだのだから、どうにでもなってしまえばいい。
未だ、止まることない喉の焼けるような痛みや涙をそのままに、私は目を瞑り、意識を飛ばそうとした…その時だ。
「瑞希…、にげ、な…」
突然、自分の名を呼ぶようやく絞り出された見知らぬ声が聞こえ、私は目を見開く。
すると、どこまでも闇に包まれていた世界に亀裂が入り、急激に光が立ち込め…自分の意識が引きずり出されるかのような感覚が私の身体を襲う。
「な、に…?」
その感覚がやけに恐ろしく感じてしまって、私は、両手で頭を抱え、何とも言えぬ恐怖に耐えてみる。
だが、それだけでは、恐怖を抑え込むことが出来なくて…私は、思わず、絶叫をしてしまう。
「っ…ぃやぁあああああぁあああ!!」
痛む喉など気にもせず、血でも吐いてしまうのではないかと思う程に私は大きな声を上げていた。
それこそ、目の前が揺らぎ、霞む程に…
―――ダメ、だ…意識が…
限界まで、叫びすぎてしまったことで私の意識が朦朧とした瞬間。
「嗚呼、狂ったように泣きじゃくる君は、何て美しいんだ」
どこか愉快そうに、狂気を孕ませた男の声が聞こえ、私は手放しかけた意識を無理矢理に掴み取る。
そうすれば、揺らぎ、霞んでいた視界がクリアになり、目が条件反射のように周囲の状況を整理するため、見渡し始めた。
最初に目に入ったのは、夥しい程に地面に広がる…どす黒い、『赤』の水溜り。
そして、その水溜りに浮かぶように倒れる…人の姿が私の目に飛び込んできたものだから…
「…っ、ひぃ?!」
思わず、声にならない悲鳴を上げ、座り込んだまま、後ろへと後ずさってしまった。
――『あれ』は何? よく見たら、近くにもう一人、倒れてる人が…
私は、物言わぬまま倒れ込む人の姿を見ての恐怖を拭い、大混乱する頭に鞭を打って、目の前の血塗れになった人が倒れている大惨事から決して目を反らすことなく、必死に状況を読み取っていく。
血塗れで倒れている人達…正確に言えば、30・40代ぐらいの夫婦と思われる男女、二人は、もうこと切れてしまっているのか、ただうつ伏せの状態のまま、ピクリとも動かない。
状況からして、何者かに襲われたのは明白だ。
だとすれば、間違いなく、彼らを襲った犯人はきっと近くにいる。
私は情報の見落としがないようにと目を皿のように見開きながら視線を地面から少し上げ、右に左にと彷徨わせれば、予想通り、倒れている人達の近くに血で汚れた洋服を身に纏い、手に刃物を持った夫婦を刺した犯人と思われるインテリ風の青年が佇んでいた。
その姿を捉えたと同時に、男と私の視線が絡み合った瞬間。
「嗚呼、その怯えた表情も…素敵だね。
僕の愛しの君…君のこの刃を向けたら、もっとその素敵な表情は見られるのかな?」
とても愉快そうな声を上げながら、その男は人を殺めたのにも関わらず、実に幸福そうな笑みを浮かべ、私を見つめてきた。
そのちぐはぐな彼の状態に狂気を感じてしまった私は、頭の中に警報が鳴り響いたため、また、少し後退る。
―――不味い…目の前のコイツは、間違いなく今までのストーカーのように『頭がイッてる人』だ。
そう、頭で理解した瞬間、私は、突如、へたり込んでいた身体を立ち上がらせ、狂った男に背を向ける形で走り出していた。
これも、長年、ストーカーに襲われ続けた私が身に着けた危機回避の術である。
自分の身が危険と判断した瞬間、私は、本能のままに体を動かすことが出来るのだ。
「あっ、待っておくれ! 僕の愛しい君!!」
そんな本能の赴くままに逃げ出した私を見た男は、最初こそ、状況が理解できず、その場に固まってしまっていたようだが、すぐに自分が求めていた獲物が逃げ出したことを理解したらしく、当然の事ながら私を追いかけ始める。
私は、男が追いつけないように、ただ只管目の前に広がる道を必死に走った。
それこそ、血でも吐くのではないかと思うぐらいに全力で走り抜ける。
目指すは、人混みの多い道通り。
人に紛れてしまえば、私を殺すことは不可能に近いはずだ。
――早く、人のいる場所に身を隠さないと!!
「っはぁ…はぁ…」
「嗚呼、懸命に走る君も素敵だ…その苦しそうな顔もそそられる」
「ひぃっ…こっち、…はぁ…はぁ、こ、ない…でぇ!!」
私が走り出して、早10分程の時間が経過したぐらいだろうか。
追いかけてくる相手が成人男性と言うこともあり、少しでもスピードを緩めれば、すぐに追いつかれてしまうため、私は常に全力疾走で道を駆け抜けることを強いられていた。
そのせいで、口からは息苦しいような吐息が漏れ出て、肩も荒々しく上下するようになっており…私の体力はもう限界を迎えそうである。
なのに、一向に、私は人通りがある道に出ることが出来ず、寧ろ、行く先がどんどん暗くなり、人の影すらも見えない程の道しかなくて、かなり焦りを感じていた。
―――ま、ずい…息が続かなくなってきてる…もう、限界が近い…どこかでやり過ごさないと!
こうなれば、人通りの多い所を目指すのを諦め、この場をやり過ごせる場所を探し、男が通り過ぎるのを待つしか方法はないだろう。
そうと決まれば、行動あるのみだ。
私は、絶望的にしか見えない目の前の道をよく見渡し、より複雑な道に入りそうな曲がり角に目星を付け、私は出来るだけスピードを上げて曲がり角を曲がった瞬間。
「っ…きゃあ!!」
「おっと!」
どうやら、曲がった先に人がいたようで私はスピードに乗ったままの状態で相手とぶつかってしまう。
かなりの勢いで相手にぶつかってしまったため、相手を吹き飛ばしてしまったのではないかと思い、慌てて状況確認で視界を巡らせれば、相手は地面に転んでいる様子はなく、寧ろ、私を抱き止めている状態だった。
少なからず、相手に怪我をさせていなかったことに安堵したのも束の間、すぐに後ろから襲い来る男の存在を思い出した私は、突然の人の登場と言う転機を上手く利用することへと思考を巡らせる。
ぶつかった相手は、どこか冴えないような30代ぐらいの細身な男。
しかも、身に付けている服装が白衣と言うことは彼が医者で有り、ある程度の知性を有していることに間違いはない。
その知恵で、この絶望的な状況を何とかして貰える可能性は十分にある。
―――万事休す…すぐに後ろから男が来るから、切り捨てられることはないし…助けて貰おう
瞬時に状況判断を終えた私は、すぐさま行動を打つすべく、医者の男の胸に埋めていた顔を上げ、肩で息をしながら、私は懸命に言葉を搾り出す。
「っ、はぁ…はぁ…ご、ごめん、なさい!
前、見て、なくて…お怪我、は…」
「ああ、気にしないで、この通りどこも怪我をしていないから問題ないよ。
それより、お嬢さん、大丈夫かい?
随分と慌てていたようだけど…」
そうすれば、息も絶え絶えになりながら言葉を紡ごうとして私に気を使った医者の男が優し気な笑顔を浮かべながら、労りの言葉を紡いできてくれた。
その対応から、突き放されるという最悪な事態にはなさそうだと判断出来た私は、見ず知らずの医者の男に助けを乞おうとする。
「あ、の…私、変な、人に追われてて…」
「おや、それは大変だ。
ちなみに…変な人と、言うのは、後ろの彼の事かな?」
「え…?」
だが、助けを乞おうとした段階で医者の男が不穏な事を言い出すものだから、彼が示した後ろを視線だけ移せば、すぐ私の目に血だらけの刃物を持つ狂った男が立っていた。
そして、その目に狂気と怒りが滲んでいるのが目に入り…恐怖が一気に体全身を駆け巡る。
「っ…」
その恐怖に耐えることが出来なくて、思わず、小さな悲鳴を上げ、医者の男の衣服を掴んでいた手に力を籠めてしまう。
すると、そんな恐怖に慄き、全身を固くした私の頭に大きな手が乗り、優しく撫でられ、更には抱きかかえられる腕にも少し力が込められた。
どこか、その優しい手と程よい抱きしめが恐怖で震えている私を慰めているように思え、私は真意を問うように、医者の男へと視線を向けた。
そうすれば、危機的状況である現状にしては、似つかわしくない笑顔の表情を向けられ、『大丈夫』と声を発さずに口だけを動かしてくる。
―――大丈夫? この、いつ相手が刃物を向けてくるかも分からない状況で何が大丈夫だと言うの?
危機的状況で人を気遣える程の余裕の笑みを浮かべる医者の男のちぐはぐさに私は、違和感を覚える。
可笑しい。そう、彼は、可笑しいのだ。
いくら、様々な人と出会う機会が多い医者とは言え、こんな簡単に人を殺めるような危険な人に対峙することなど、この平和な日本ではあまりないはずである。
なのに、彼は、こんなイカれてる人と遭遇し、しかも、いつ襲われるかもわからないような状況でさえも笑える程の余裕を持っているのだ。
それこそ、彼は、日常的にこんな自分の命をも脅かすような危機的状況の元に置かれているから慣れているから余裕だ…と、言わんばかりの雰囲気を醸し出している。
そこまで思考が廻った瞬間、ずっと鳴り響いていた警報とは別の警報が新たに鳴り響く。
――え、もしかして、私、ヤバイ人に助けを求めちゃっ、た?
仄かな後悔が心に広がる。
その久方ぶりの混乱以外の感情の訪れが変に、私へと冷静さを与えてくれた。
―――てか、詰んだ? 私、もしかしなくても詰んだよね…
前方に、どこか怪しげな雰囲気を漂わせる医者…後方には、人を簡単に殺してしまう狂った人。
どう足掻いても、この場を無事に済ませるには非常に困難な状況に私は途方に暮れてしまい、視線をどこか遠くへと向ける。
瞬間、一瞬だけ現実から切り離されたせいか、私は、ふと、とあることが脳裏を過った。
――こんなバッドエンドしか望めない状況、何か、佳奈美の考えたあの物語に似て…
私の親友である佳奈美の考え出した物語。
それは、物語冒頭、主人公の両親が主人公の異能で狂ったストーカーに殺され、更には、主人公自身もストーカーに殺されそうになった所を偶然、その場を通りがかったロリコンの町医者に救われ、その後、町医者の性の捌け口にされてしまい、自らの命を絶つ破滅の道へと進むバッドエンド仕様なものだ。
そんな悲惨過ぎる物語物語と、私が現在置かれている状況がある程度一致していることに気が付く。
すると、一気に摩訶不思議だった現状を解決するかのように私の思考は廻り出した。
どこまでも真っ暗だった闇の世界が一変し、視界が晴れた瞬間、40代ぐらいの男女が血塗れ倒れており、事切れていたことを思い出す。
もしかすると…あの40代ぐらいの男女は、主人公…つまり私の両親だったのではないか?
そうだとすれば、『両親がストーカーに殺されていた』と言う場面に、私は遭遇していることになる。
しかも、気が狂ったストーカーは、私に刃物を向け、殺そうと襲ってきたため、その場から逃げれば、かなり怪しい町医者に遭遇し、助けてもらおうとしていた。
そうなれば、『己もストーカーに殺されそうになった』『町医者に遭遇し、助けられる』と言うことになるのではないか?
親友の物語のあらすじを準え、今、置かれている自分の現状と照らし合わせて行けば、どんどんと整合していく。
それに、少しばかり私は、身震いを覚えた。
―――そうだよ…極めつけに、確か、佳奈美は主人公が『生』に執着させるために、一度、死を経験し、漫画の世界へと転生したと言う設定を盛り込んでたんだ…
そう、私は、間違いなく、少し前に一度、人生を『終えた』。
あの体の自由が奪われる程の狂気を孕んだ瞳を持つロシア人に、いとも簡単に殺されてしまったのだ。
なのに、『私』は、心臓を鳴らせ、息をし、生きている。
つまり、それは、俄かに信じられないことだが、私は新たな命を授かり、この世に『転生』をしたことを意味している訳で…またも、佳奈美が描いた物語に整合されてしまうのだ。
そして、今、私が置かれている全ての状況を整理し終えた途端、一つの仮説が私の中で生まれる。
――これで、目の前の医者がロリコンだったら、間違いなく…私は佳奈美が描こうとしていた夢小説の中に入り込んでいることになるわけか。
あまりにも多い情報と受け入れがたい事実にキャパオーバーとなりつつあった頭が痛みを訴え始めた。
正直に言って、かなり非現実的である私の仮説は、信じ難い事実であると同時にもし、その夢小説の中に入り込んでいるのだとすれば、私にとって最悪なことしか起こらない世界でしかないため、出来る事なら私の仮説は外れていて欲しい。
だが、その仮説を外すためには、この目の前のどこか怪しい医者が人畜無害な本当は『いい人』だったと言う証拠が必要になるが…
―――何か、それこそ、あり得ない話のような気がする…
何せ、目の前の医者は、今まで培われた私の危険本能がこの医者に警報を鳴らすぐらいだ。
そんな人物が、『いい人』と言うのは、あまりにも考え難い。
考えれば、考える程、私の仮説が確信に変わっているようにも思えるが…
まだ、目の前の医者が『ロリコン』であると言う情報は手に入れていないのだ。
悲観するのは、早計だろう。
――とりあえず、目の前の医者からの情報が少ないから、様子見ね…
今まで得た全ての情報を元に、未だ解明されていない医者の素性を明らかにするのがいいと判断した私は、この場を何とかしてくれると言う医者に全てを委ね、相手の動きを伺うことにした。
「嗚呼、僕の愛しい人…また、そうやって僕以外の人の胸に抱かれているなんて…
君は何て罪深いんだ。
こうやって、君が僕以外の人の胸に抱かれるのを見せつけられるんだったら、さっき、泣き狂う君を愛でないで殺しておけばよかったね…
あぁ、そうだ、もう君が誰のものにもならぬように殺してしまえばいいんだ…そう、僕だけの君にしてしまえばいい」
そんな状況を伺う姿勢になった私は、何も抵抗することなく医者に抱かれるがままになっていれば、それを気に入らなかったストーカーが思わず背筋が震える程に気持ち悪い言葉で文句を言い始める。
ストーカーに襲われる度に毎回、気分が悪くなるような言葉を投げつけられているため、聞き流せるぐらいには慣れているのだが…今回は、いつもの狂気にプラスして殺意が向けられているせいか、いつになく不快感と恐怖感が増し、私の心にじわりじわりと侵食してきた。
そのせいで、少し気持ちが揺らぎ、今にも感情的になりそうな自分が見え隠れし始めたので、私はそっと、息を吐き出し、心を落ち着かせる。
いけない。
ただでさえ、現状は、いつバッドエンドに振り切れるかわからない危機的状況なのだ。
ここで感情に捉われてしまっては、訪れるはずの僅かな好機を逃してしまう。
それだけは、何としても避けたい。
その一心で、私は僅かに溢れ出しそうな感情を全て蓋をして消去し、ただ目の前の二人の会話や動きに集中した。
「なるほど、確かにお嬢さんが言うように彼は『ちょっと』、頭がイカれてる人のようだ…
こんな幼気で愛らしい女の子を残忍にも殺してしまおうなんて、正気の沙汰じゃない」
『ちょっと』ではない。『大分』、イカれているの間違いだ。
危険と隣り合わせになっていると言うのに余裕そうにヘラヘラとしながら、紡いだ医者の発言についツッコミを入れてしまいたくなるのをぐっと抑えながら、私は医者が最後に告げた『幼気で愛らしい女の子』と言う現在の私に纏わる情報の言葉を冷静に分析し始める。
どうやら、今の生まれ変わった私は『幼気で愛らしい女の子』になっているようだ。
30ぐらいの男が『幼気で愛らしい』と言い現わすと言うことは、恐らく、現在の私の年齢は恐らく小学生ぐらい…と、言った所だろう。
―――佳奈美の物語だと、物語スタート時の主人公の年齢は確か12歳…つまり、私の見た目年齢とも合致してる…はあ…嫌な予感しかしない。
またも、親友の物語の内容に合致してしまったため、私は内心で大きな溜息をつく。
これで、もし、目の前の医者が『ロリコン』であるならば、仮説は核心に変わり、私はバッドエンドしかない物語の主人公になってしまったことが確定してしまうのだ。
そうなれば、私は、この先、明るく楽しい第二の人生ではない、お先真っ暗と言う人生が待っていることになる。
それだけは、何としても、避けたい。
――お願いだから、目の前の医者がロリコンではありませんように…
目の前の医者に私の命運を掛けると言うのも、何とも心もとないが…私は、切に目の前の医者がロリコンではないことを祈った。
「…何だって?」
「だって、そうじゃないか。
まだ彼女は、12歳ぐらいと幼い…それこそ、彼女はまだ自分だけの狭い世界しか知らないのだから、今から全ての世界からの関与を遮断し、自分しかいない世界に囲ってしまえば、自ずと彼女は自分のモノにしてしまえるんだよ。
しかも、その方が自分色に彼女を染められる楽しみも味わえるし、達成感や優越感に浸れる。
これだけ、合理的なものはないと思うんだがね…そうは思わないかい?」
―――うん、コイツ、完全に『ロリコン』だわ。アウト!!!
だが、私の祈りは、どこか良い事を言っていると言う風な表情を浮かべた医者のせいで空しくも無意味なものへと変化した。
本当、数秒前に必死に祈っていた私の労力を返してもらいたい。
そう思えるぐらいに、この目の前の男は医者と言う善人の皮を被った、ただの変態ロリコン野郎であったのだ。
――嗚呼、バッドエンドしかない物語の主人公とか最悪…本当、最悪!
完膚なきまで、私が仄かに期待していた希望が打ち砕かれた瞬間、膝から崩れ落ちそうになるぐらいの脱力感を覚える。
しかし、その場に崩れ落ちそうになった所で私の腰は変態ロリコン野郎に支えられていることもあり、崩れ落ちることなく、直立を維持していた。
すると、腰をへたり込んでしまった私の姿が、随分とお気に召したご様子の変態は、相手に自分の性癖を絡めた持論を言い終えた後、すぐに私へとかなり緩み切った笑顔を浮かべながら、視線を向けてくる。
瞬間、背筋に寒気を感じた。
―――うん、へたり込んでる場合じゃない! 隙を付いて、コイツからも逃げなきゃ!
ひしひしと、自分の身の危険を肌で感じ取った私は、すぐさま、自分の身を守るための次の手を考え始め、力が抜けた足腰に必死で力を込めて自分の足で直立を維持する。
そして、相手が私を屈伏したと勘違いされないように、変態を強い怒気を込めた瞳で睨みつけた。
――負けない…アンタが好き勝手出来るような子供だと思わないで。
そんな想いを、込めて…私は静かに変態を見つめた。
「ほう…」
そうすれば、変態は、仄かに頬を赤らめながら、喜々とした表情を浮かべ、感嘆するように声を上げ、変態の視線が私の方へと釘付けになった。
しかも、かなり凝視する形で私を見るものだから、少し不愉快な気持ちになり、私は、更に睨みを利かせ、変態を見つめた、次の瞬間。
変態の両手が私の両頬を優しく包み込んできて…
「良い…良いよ! その脆く儚い風貌とは、真逆の内側の気の強さ!
そのギャップが、また、たまらない!!」
突如、喜々とした声音で奇声を上げた。
しかも、恍惚としたような表情で喜びを噛みしめている。
それに一瞬、何が起こったのか理解できなかった私だったが、変態の異常な喜び方にすぐ冷静になった私は、変態が喜ぶ理由を理解し、数秒前の変態に噛みついた自分を殴りたくなった。
―――変態の性癖を刺激するとか…私の馬鹿野郎ぉ…
未だ、喜びが冷めやらぬ様子の変態の姿を見ていたら、どんどん気が遠くなってしまい、視線までも遠くに向ける。
まさか、目の前の変態が気の強い少女がお好きだとは…
悔やんで悔やみきれない。
本来、隙を付いて逃げても相手が追って来ないように相手の興味を引かないよう心がけなくてはならなかったと言うのに…これでは、追われるリスクを高めただけではないか。
「そうだ、お嬢さん。
ここで出会えたのも運命だ、私と一緒に暮らさないかい?
こう見えて、高給取りの医者だから何不自由ない生活は保障するし、こうした外敵に襲われることなく暮らさせてあげるよ」
自分の犯した過ちに苛まれ、半ば放心状態になっていた私に、突然、変態は両頬を触れていた手を離し、すぐに私の両手を掴んで頷きたくもない誘いをしてきた。
あまりにも、その誘いを聞きたくもなかったせいか…自然と私の顔が歪んでしまう。
「嗚呼、良い!
その蔑むような目も、最高だよ!!
さあ、すぐ私と一緒に行こう! そして、ずっと愉しく一緒に暮らそう!!
大丈夫、絶対に苦労はさせないから!」
その無意識に出てしまった表情も、どうやら変態には、嬉しい刺激だったようで興奮気味に畳みかけてきた。
しかも、畳みかけるだけには飽き足らず、変態は私のストーカーの事など一切忘れてしまったように無視をして、私をその場から連れ出すかのように手を引っ張っていく。
――誰か、この変態をどうにかしてくれ…
「っ、な!?
お、お前!! 抜け駆けをするつもりか!?
彼女は、僕のだぞ! その手を放せぇえ!!」
そんな私の心の叫びが聞こえたのか、空気と化していたストーカーがようやく己の執着対象が突然現れた男に攫われそうになったことに気が付き、まるで自分の存在を自己主張するかのように叫びながら刃物を向け、私と変態に襲いかかってきた…その時だ。
シュッ!
突然、私の耳に何かが飛んでいく音が聞こえた。
「ぎゃああぁあぁぁぁあああ!!!!!」
そして、その直後、私の背後から断末魔のような声が耳に入り、仄かに血の匂いが鼻腔を霞める。
その僅かな情報だけだったのにも関わらず、私は、後ろを振り向かなくても何が起こっているのかすぐに理解できてしまった。
―――ダーツでも楽しむかのような手付きで刃物を投げ、ストーカーを殺害…この医者、間違いなく変態ロリコンだけど、立派な殺し屋だ。
私は、後ろを振り返ることなく、ただ目の前で殺戮を楽しんだ変態の目を真っ直ぐに見つめた。
そうすれば、変態の瞳がどこか愉快そうに細められ、私の手を握る手にそっと力が込められる。
「忘れるところだったよ。
君を迎え入れる前に…綺麗な花に集る害虫は、駆除しておかないとね。
でないと、いつ、私と君の愛の巣に沸いて出て来て、君を攫っていくかわからないから。
さあ、これで邪魔者はいなくなった…私と一緒に来てくれるね?」
変態は、抗うことを許さないと言わんばかりの重苦しい重圧を醸し出し、私の自由を手折ろうとしてきた。
きっと、普通の12歳の女の子であったなら、重圧に負け、変態に手を引かれるがまま、連れて行かれてしまうことだろう。
―――でも、残念…私は、普通の12歳の女の子じゃない。
「わかりました、行きます…
何て、言う訳ないでしょうが!!!」
「ぐわぁっ!!! っ~~~~~」
私は従順に従うふりをして変態を油断させた瞬間、最後の抵抗とばかりに男の急所を蹴り上げた。
もちろん、一瞬だけ従う素振りを見せたことで完全に油断した男はノーガードで私の蹴りを食らったため、その場に蹲り、痛みに悶える。
「さようなら」
そのお陰で、私の手を握っていた男の手が離れたため、その隙を付き、私は変態に別れの言葉を述べてから、走り去ったのだった。
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