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プロローグ ハッピーエンドルートに必須な男
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必死に走り抜け、命からがら変態ロリコン男から逃れることが出来た私は、人気のない路地裏に迷い込んでいた。
――アイツに追われて、ないよね?
念のため、後ろを振り返り、変態が来ていないかを確かめてみたが、全く背後に人影はない。
「っ…はぁ…」
外敵のいない状況が視界に入った途端、安堵からか一気に疲労感が私に押し寄せてきたため、私はその場に膝を抱えながら蹲ってしまう。
瞬間、どっと汗が頭から滴り落ち、首筋を濡らしていった。
それが、不快さを感じさせるものだから、先程、感じていた疲労が更に増していく。
―――もう、肉体的にも精神的にも限界…
つい、心の中で弱音を吐いてしまった。
いつもなら、自分の限界が来たとしても弱音を吐くよりも状況の打破を考えるのだが、今回は、状況が状況なだけに上手く自分の中で切り替えることが出来なくて、弱音が先行する。
そんな弱音を吐く自分が、とても情けなく、弱い存在であることをまざまざと感じさせられた私は、喝を入れるかのように自分の両頬を両手で叩き、後ろ向きになっていた弱い自分を蹴散らした。
――ただでさえ、この世界は私に優しくないんだから、弱音を吐いてる場合じゃない! これからどうするか考えないと!
未だ、肩で息をする程に上がった息を、ゆっくりと落ち着けるように呼吸を繰り返しながら、私は今後の対応を考える上で重要な転生前の記憶を辿り始める。
確か、大きなバッドエンド要素を回避するための『救世主』がいたはずだ。
その『救世主』に出会えれば、少なくともお先真っ暗な未来がやってくることはない。
―――えっと、その人の名前は…
記憶を思い出すため、必死で脳内に仕舞われた記憶の引き出しを慌しく開け始めた瞬間。
『よし、ここは文豪の一番の良心である『織田作』を投入しよう!
その方が、ポートマフィアに主人公を絡ませやすいし!』
ふと、沸いて出てきたかのようにその時の光景と佳奈美の言葉が鮮明に頭の中に流れてきたため、私は閉じていた目を見開く。
――そうだ、『織田作』! 佳奈美は『織田作』と言う人物と出会わないといけないって、言っていた!
中々思い出せなかったモヤモヤが一気に晴れ、清々しい気持ちが私を包み込み、どこか安心感のようなものを覚える。
だが、そんなスッキリとし、安堵したのも付かぬ間…私は『とある問題』に気づいてしまう。
―――あれ、でも…私、『織田作』の顔も特徴も何も知ら…ない?
かなり致命的な事に気づいた私は、少し上向きになっていた気分が急に急降下し、顔が青ざめる。
何を隠そう、私は、つい数時間前に『文豪ストレイドッグス』を知ったばかりの人間だ。
しかも、佳奈美のネタ打合せのため、流し読み程度に軽く一話を読んだだけなので、しっかりとした内容がわかっているわけでもないし、キャラクターの顔さえも朧気。
唯一、私が覚えているのも佳奈美の推しである『太宰治』とこの漫画の主人公である『中島敦』、あとメガネが印象的だった『国木田独歩』の顔ぐらいがギリギリだろう。
後は、ちょっとしたここの世界観が理解出来ていると言うだけだ。
たった、それだけの事しか、私はわからないのである。
――嗚呼、終わった…こんなよくわからない場所で名前しか知らない人を探すなんて無理すぎるし…もし『救世主』に出会えなかったとして、12歳と言う子供の…しかも擁護してくれる両親までいない私に何が出来ると言うの?
考えれば考える程に、解決不可能な問題が目の前に山積みになるものだから、私は気が遠くなり、項垂れてしまう。
ようやく、状況を好転させ、一歩前進出来ると思ったのに…これでは逆に何歩も後退してしまったではないか。
―――これが、バッドエンド要素しかない物語の主人公なのか…最悪だわ…
まさに、最悪のことしか降りかかって来ない絶望的な展開に打ちひしがれた私は眩暈を覚えていた。
そのせいで、今まで冷静に動いていたはずの思考が鈍り始め、やがては停止してしまう。
思考を停止する暇など私にはないと言うのに…
いくら、危険だと頭に強く訴え掛けても、ピクリとも動いてくれない。
所謂、キャパオーバーと言うやつだ。
――うん…一旦、考えるのを辞めよう
どう足掻きもがいても、思考を巡らせることができないと悟った私は、一旦、気持ちのリセットも兼ね、考える事を放棄した。
目の前の問題から目を逸らすことで、ざわざわと荒くれ立つ感情を落ち着かせる事ができる。
そうなれば、ある程度、心に余裕が生まれるため、違う打開策が見えてくるはずだ。
そう、決意した私は、すぐにあらゆる問題でぐじゃぐじゃになった頭の中の物を一気に取っ払い、真っ白にさせた。
どこまでも…どこまでも空っぽにし、柵を取り除けば、自然と心が落ち着きを取り戻し始め、余裕が生まれ始める。
―――よし、これなら、大丈夫そう…
心のリセットが完了し、確かな手応えを感じた私は、また天高く聳え立つ問題の山をどう調理しようかと考え出した…その時だ。
突然、背に大きく温かな手で優しく撫でられる。
「おい、どうした?
具合でも悪いのか?」
「え…?」
そして、優しく心地の良い声で私へと労う声が降り注がれたため、私は驚きの声を上げながら、ゆっくりと俯いていた顔を上げた。
すると、赤毛の髪をした灰色の瞳を持つ10代後半ぐらいの青年が心配げな表情を浮かべ、私を見つめてきたのが目に入ってくる。
あまりにも唐突過ぎる青年の登場に、一瞬、呆気に取られたのだが、彼の纏う空気感が不思議と私に安心感を与えてくれたため、すぐに冷静さを取り戻した私は目の前の彼が安全な人なのかを判断するために12歳と言う年齢を考慮した言葉遣いで口を動かし始めた。
「怖い人達から、逃げてて…疲れたから、休んでただけです」
「『怖い人達から逃げてた』…だと?
もしかして、お前、誰かに襲われたのか?」
「はい…刃物を持ったお兄さんが、突然、襲ってきたから、怖くて…逃げてたんです」
出来るだけ、見た目年齢にそぐわない発言をしないように心掛けながら、私は、青年の人柄を見させてもらうため、実際に起こったことをありのままに伝えた。
そうすることで、面倒なことに自分が巻き込まれそうになった時に取る行動を見ることで、相手のある程度の人柄が見ることが出来るからだ。
面倒を避ける利己主義のタイプの人間ならば、すぐこの場を立ち去ろうとするだろうし、お人好しの善人タイプであれば、面倒事など気にもしないで真摯に助けようとしてくるはずである。
出来る事ならば、彼が後者の人間であるならば、この場を打開するきっかけにもなるため、後者であってほしいとは思うが、例え、前者であったとしても、私は見捨てられるだけで、良くも悪くも私に害はない。
――さあ、どっちでも来い!
どちらに転んでも、自分の身の安全が保障できたことで余裕が生まれた私は、下手に傷を負わないよう心に壁を作り上げた上で彼と向き合った。
すると、彼は、静かに最後まで私の話を聞き終わった途端、優しく背を撫でていた手を私の頭へと移動させてきて…
「…そうだったのか、大変だったな」
彼は、優しく私の頭を撫でながら、小さな微笑みを浮かべ、短いながらも労いの言葉を紡いできた。
その瞬間、私が先程、作り上げた心の防壁が一気に崩れ落ち、心を剥き出しにされる。
それにより、あらゆる感情が私の中を蠢き出す。
目頭が熱を帯びた…同時に視界を歪んでしまったため、私は慌てて、彼から視線を外し、俯く。
―――どうしよう…本当、短くて何気ない言葉が心に、沁みる…
そう、彼が私にしたことなど、小さな子供を宥めるために頭を撫でた事と多くを飾らない一言だけの言葉を言われただけだ。
たった、それだけ。
それだけだと言うのに…どこか、そこに彼の優しい温かさを感じてしまう。
そして、その温かな優しさは、私の心にじわりじわりと浸透し、ずっと押し殺そうとしてきた感情を溢れ出させそうにしてきた。
そのせいで目から雫が溢れ出し、涙が零れ落ちそうになったため、私は慌てて、唇を噛み締め、手を力強く握って涙を流さないように必死に堪える。
ここで、涙を許してしまったら、きっと、私は壊れたように泣き、まともに話すこともできなくなるだろう。
それでは、せっかくの青年が作ってくれた絶好のチャンスを掴み取る事ができなくなってしまう訳で…それだけは、どうしても避けたいのだ。
何とか感情的になる自分を律することが出来た私は、零れ落ちそうだった涙を引っ込め、どこか安堵させられるような微笑みを称える青年へと視線を戻し、会話続行の意思を示す。
そうすれば、彼は、私の視線の意味が理解できたようで私の頭を撫でていた手をそのままに、私に対する質問をし始めた。
「お前、親は、どうしたんだ?」
「わからない、です…」
「わからない?」
「はい…
私、自分の名前以外の記憶が…なくって。
その他に覚えている事と言えば、襲ってきたお兄さんが私に襲い掛かる前に大人の女の人と男の人を殺していたって言うことしかわからないんです…」
「襲われる前に殺されていた大人の男女…か。
そうか…
じゃあ、お前の名前を聞かせてもらえるか?」
真実を話した所で到底わかっては貰えそうにないため、私はこちらに来た時に実際見た時の情報だけを青年に伝える。
それとなく『親は自分の目の前で死んでおり、そのショックで記憶がなくなってしまった』と言う情報を言葉内に仕込めば、青年は大分、察し能力が高いようですぐに理解してくれた。
私の話を聞いてすぐに彼が『親』などの話題を避け、私の知っている情報だけを聞いてきたのが、その証拠だ。
―――下手に、追及して私が嫌なことを思い出さないように配慮してくれてるんだ…本当、優しい人。
出逢って、まだ数分しか経っていない。
それなのに、彼がどれだけ優しく人が良い存在なのかが、分かってしまった。
彼なら、きっと差し出した手を引っ込めることはない。
そう、確信を持てた私は、唯一、明かせることが出来る名前を偽ることなく伝える。
「名前は、瑞希って、言います。
あの…お兄さんは?」
そして、私は、彼への興味関心の意を示すために、ここで初めて彼に名を問うた。
友好的な会話の原点は、まず、相手を知ろうとすることが重要だ。
それにプラスし、警戒をしていないと言うアピールも必要になるため、私は小さく微笑みを称えて彼を見つめた。
そうすれば、彼も私の警戒がなくなったことに気づいたようで、私の頭に宥めるよう乗せていた手を退け、己の名を紡いだ。
「ああ、名前、まだ言ってなかったな。
俺の名前は、織田作之助だ。
よろしくな、瑞希」
すると、彼の口から予想外の情報が私に飛び込んでくる。
そのあまりの事に私は驚いたように目を見開き、思わず、思ったことを口にしてしまう。
「え……『織田作』?」
「? ああ、そう周りには呼ばれてるな」
「え……?」
その唐突な私の口から出た確認するような問いに、青年は疑問にも不審がる様子もなく、飄々とした態度で私の問いに答えたくれた。
お蔭で、私の頭は衝撃的な事実に軽いパニックを起こし、頭が真っ白になってしまってしまったが…すぐに頭が情報を正しく理解し始める。
―――嘘、そんな偶然、あり? え、てことは…第一バッドエンドルート回避できたってこと?
その事に気づいた瞬間、急に緊張していた糸が急に解れてしまったようで私の身体から力が抜け、視界が暗転し、その場に倒れ込んでしまった。
「瑞希?
…って、あっ、おい!!
大丈夫か?!」
倒れた直後、慌てたような青年、改め、『織田作』の声が聞こえた。
だが、それもどんどん遠くなっていき…私は、『偶然と言う奇跡の訪れに感謝』しながら、意識を手放したのだった。
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