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プロローグ 願えば叶うということ。
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耐えようのない痛みから逃れ、痛みも感覚もない世界へと意識を沈ませてしまった時だ。
ふと、私の耳に優しい声音が聞こえる。
「ありがとう、高崎さん。
何回も見舞いに来てもらっちゃって…」
それは、24年間、私を大切に育ててくれた母の声。
私が記憶している元気な声音とは打って変わって、覇気のない声を発していた。
そのことに驚き、思わず目を開けようとしたが、何故だか体が動かなかった。
自分の思い通りに動かない体に疑問を感じながら、何度も何度も繰り返し動かしてみるが全くと言っていいほど、動いてくれない。
「いいえ…和泉ちゃんが倒れてしまった一因は私にもありますから。
こんなことしかできないのが申し訳ないですが…」
「そんな、とんでもない。
優衣がこんなになるまで働かせたのはあなたではないわ。
無能な上司を野放しにしていた会社が悪いんです、あなただって優衣と同じ犠牲者なんだから何も悪いことはしてないわ」
「……ですが」
「もう、いいのよ…それ以上は何も言わないで。
きっと、言い出したらあなたが潰れてしまうわ…」
「すみません…」
己の体と葛藤を続けていたら、明らかに落ち込んでいるかのような複数の声が耳に入る。
その声は双方とも普段の姿からは想像もつかない程、気落ちしているものだから、思わず動かそうとした意識を話している人たちへと向けた。
声や話の内容から今、会話をしている二人は高崎さんと私の母で、あの耐えようのない頭痛のせいで私は倒れ、病院に運ばれて入院中というのがざっと理解はできた。
きっと、過労がたたり、倒れてしまったのは明白。
朝9時に出社し、夜はだいたい12時を越えないと帰れないぐらいだ。
体を休める暇なく労働していたのだから、誰かがこうなってもおかしくはない。
それがたまたま、私になっただけ。
そう、自分の中で折り合いを付け終われば、しばらく沈黙の間が流れていた病室に何か意を決したかのような高崎さんの声が木霊した。
「っあの…こんなこと、聞くのは大変失礼なんですが…
和泉ちゃんの容体ってよくないんですか?」
「高崎さん…」
「だって…もう倒れて1週間近く経つのに、全然目を覚ましてくれないし…」
「この子、寝坊助さんだから仕方がないのよ」
「…でも、昨日…退職の手続きしてますよね?
ただ眠っているだけなら、退職をしなくてもいいですよね?」
「そう…か、もう退職することが周知されてるのね。
事を大事にしないように言ってくれって言ったのに、本当…最後まで配慮の欠片もないのね、あの会社は…。
まあ、言った所で反省するつもりはないのでしょうけど」
「すみません…」
「高崎さんが謝らないで。
それにずっとお見舞いに来てもらっているあなたには言っておかないといけないわね。
…あなたが予想している通り、優衣の容体は非常によくないの。
何か、脳に大きな腫瘍が出来てたみたいでね。
無事に取り除いて、手術は成功したんだけど…脳が少し傷ついてしまっているみたいで、もしかすると意識が戻らないかもしれないんだそうよ」
「っ…そ、れって…」
「事実上、植物人間なんだそうよ」
悲しみに耐えるかのような声で吐き捨てられた母の言葉が異様に自分の心に響き、ひやりと冷たく締め付けられたような感じがした。
『事実上の植物人間』。
それは一生、目を覚ますことが出来ないということ。
事実上の『死』とも言えるだろう。
だから、必死になって目を開こうとしても開くことが出来なかったのかと今更ながら納得してしまった。
本来なら、ここで納得をしている場合ではないのだろうが、やけに冷静に考えてしまっている自分がいた。
きっと、こうなってもおかしくないとどこかで思っていたのかもしれない。
普段から若さにかまけて自分の体を労わるようなことはなかったし、仕事ばかりでいきつく暇もない程に自分自身を酷使していたのだ。
当然の結果とも言えるのだろう。
誰のせいでもない、自分自身の体調管理の甘さに嫌気が差し、溜息さえ出てしまった。
そんな弱く、甘い自分が嫌いになった時だ。
仄かに光を感じるかのような希望の声が上がった。
「でもね…先生が言うには、傷と言っても意識障害が残るほどの傷と言う訳ではないんですって。
だから、こうして目を覚まさないのは本人の意思なのかもしれないってね」
「…和泉ちゃんの意思」
「そう…きっと、この子のことだから仕事を寝る間も惜しんでやっていたんだろうから、ちょっと疲れて寝ていたいのかもしれないって思ったの。
なんて言っても寝坊助さんだから、疲れが取れるまでは寝ていたいって思うのかもしれないなって…」
「確かに…今の和泉ちゃんの顔、幸せそうですもんね」
「そうでしょう。
これなら、寝つくしたらすぐにでも起き上がりそうでしょうじゃない?」
「そうですね。
起き上がって、お腹すいたとか言いそうですもん」
「食い意地だけは張ってるからね。
お腹が空いたって感じれる程、疲れが取れたら起きるんじゃないかなって思ってるの」
「…あ~、和泉ちゃん。
言われれば、よく寝ながらご飯食べたりするほど、食い意地張ってましたね」
「ああ、それ小さい頃からの得意技なのよ~。
よく、それで食べるか起きるかどっちかにしなさいって怒ったことがあったけど…それは健在なのね」
人が寝ていることをいい事に目の前で悪態をつき始める母や高崎さんに少し拍子抜けをしながらも、先程の重苦しい雰囲気が軽くなったのを感じて安堵した。
二人は絶望している訳ではない事が嬉しかったのだ。
これでお通夜のようにしんみりと泣かれるようであれば、死んでもやるせない気持ちになってしまう。
それだけは御免被る。
どうせ死ぬのなら、気持ちよく死にたい。
そんな縁起でもないことに思い馳せていれば、笑い声と共に聞こえた吹っ切れたかのような言葉。
「ちょっと、安心しました。
和泉ちゃんはただ疲れて眠っているだけだって思えば…。
あれだけ、頑張って必死にみんな事を守ろうと奮闘してたんですもの。
疲れても仕方がないですよね」
「そうね…だから、もう少しだけ休めば、きっとすぐに起きてくれるわ。
それまで、ゆっくり休ませてあげないと…
ねえ、優衣…今はゆっくりおやすみなさい」
慈悲深い声音は優しく私の耳を燻り、冷えていた私の胸を熱くさせた。
事実上の植物人間と言われてもなお、悲観せずに意識が戻ることを信じてくれていることがどうしようもなく嬉しさがこみ上げてくるのだ。
倒れる前では気づくことが出来なかった母の優しさは、こんなにも身に染みるなんて知らなかった。
こんなことならば、もっと親孝行をしておくんだったと後悔の念に苛まれる。
―――『どれだけ、この人を心配させてしまったのだろう?』
考えた所でわかる事のない母の心労。
生きるために必要な家事すらもまともにできなかった私はきっと彼女の心配を更に増長させていたに違いない。
小言ばかり言っていたのが、いい証拠だ。
体を壊さないようにと、寝ろだの食べろだのと耳にタコが出来るぐらいに言われ続けた言葉を振り返れば、どれも全て私を想って言ってくれた言葉たちだった。
倒れて、手遅れになる寸前になって母の愛を知るんなんて馬鹿としか言いようがない。
『ごめんなさい』なんて言葉では済まされないだろう。
―――ああ、どうか神様がいるのならば、もう一度私にやり直すチャンスをください。
母に心配を掛けないように家事だって頑張ります。
仕事だって、自分の技量に似合わず、無理して体を壊すことはもうしません。
自分を大事にすると誓いますので、どうか…もう一度、母に謝るチャンスをください。
目を瞑り、切に願った。
その時だった。
感覚さえ忘れていたはずの眠気が一気に押し寄せてきたのだ。
聞こえていたはずの音が消え、自分の意識が静かに落ちていくのに抗うことが出来ず、私は簡単に意識を手放してしまった。
☆願えば叶うと言うこと。☆
以外にも、神様と言うのはいるようで…
私が次に意識が戻った時には、病室ではなく自分の部屋のベットの上だった。
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