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神竜と村娘
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それを神と見做すものもあれば、またはその落とし子として崇めるもの、災いや悪の権化と呼ぶもの、危険生物だと忌み嫌うものも居た。
信仰の形は違えど、呼び名は数多あれど、その生物の姿形は、世界各国、殆ど変わりはない。
爬虫類のような皮膚に、巨大な身体、感情と人語を解する知能と、大きな翼を持った、空を飛ぶ長寿のけもの。
ある村ではそれを、神子竜――神の子と呼び、崇め奉っていた。
村から離れた森奥の泉に巣食う、一匹のけもの…否、神子竜。
彼が、この地区一帯を縄張りとする神子竜である。
首元から蜷局を巻いた尾の端まで伸びた棘の鬣に、土色の鱗に覆われた硬い皮膚、深い緋色の瞳を隠した瞼、炎のように熱い吐息の漏れる口元。
そして竜の最大の特徴とも言える大きな翼は、蝙蝠のような形をしており、骨と皮膚だけだが非常に分厚く鋭利である。
その悍ましい姿は、神と呼ぶには程遠い。
神か怪物か。と思えば、竜は犬のように腕を交差させ、その上に顎を乗せて、つまらなさそうに微睡み始めた。
「はぁ、春は暇だな」
長いもので千年以上も生きると云われている竜は、子供を作る必要がなく、春が来ても他の動物達のように生殖活動をする必要が無かった。
何年もの間、ただ餌を食み、夜がくれば眠りに就き、怠けて生き長らえる。その時が来れば雌竜と子供をもうけ、子を育て、天寿を全うし、死を迎える。
感情と高度な知能を持つ竜達は、たかだか数百年の時を過ごしただけで、既に、この世に巣食う生物達が、何故生まれ、そして生きるのか、その意味に気付いていた。
我らは、一族のために生きている。
一族の繁栄のため、歯車の一部として生きることが、竜だけではない、この星に生きる全ての生物の定め。
だが、もし自らの種族の存続が生命の目的ならば、そもそも生きとし生けるもの達は何故この星に存在しなければならないのだろう。
(…生物の一生とは、生物が生き長らえる理由とは、一体何なのだ)
恐らく、生涯答えに辿り着く事が出来ないであろう難問にぶつかり、泉の竜は頭を悩ませる。
「…まぁ、そんな事を考えても意味は無いか」
竜は、その難問を今日もまた途中で投げ出し、いつものように眠りに就き、懶惰なる一日を終えるのだった。
*
そんな代わり映えのしない毎日の中の、ある朝。
その日も先日、先々日と同じように、竜は自身の生きる意味を考えながら、森でいちばん大きな木の陰で、うたた寝をしていた。
あの難問は、竜を安眠に就かせるには効果的だった。
なかなか眠れない時に思い出せば丁度良く、雨で地面も大気も冷えた夜でも、雷鳴の轟く喧しい日でも、数秒で竜を夢の世界へと誘う。
そうして、今日もその答えを探しながら、意識を手放そうとしていた寸前のこと。
バシャバシャ、バシャバシャ、と、その眠りを遮るように、水が跳ねる耳障りな音が、竜の耳朶に飛び込んで来た。
(…何だ、折角気持ち良く寝ようとしていた所を)
片目だけ開き、音のした方にぎょろりと眼を動かす竜。
竜のおぼろげな視界のその先には、前方の泉で、ブリキのバケツを使って水を汲む少女がいた。
日に照らされ光る短い茶髪に、触れるだけで折れてしまいそうな、細い手足、まだ小さく未発達な胴体。
瞳はこの泉の水のような美しい蒼さを持ち、雪のように白い肌は、赤色のワンピースに映えていた。
恐らく、森の近くの村の住民だろう。齢は十かそれより下か。非常に愛らしい娘である。
何をしに来ているのだろう。家の手伝いだろうか? とするならば、なんと健気であろうか。このような危険な森の中に、子供一人で踏み入るとは。
だが竜は、人というものが嫌いだった。
何かに依存せねば生きてゆく事の出来ない、愚かで傲慢な癖にそれをひた隠し、賢く振る舞い生きる脆弱な生物。
最も気に障るのは、皆一様に神などという存在しない不確かなものを信じているところだ。
この世に、神など存在せぬ。
勝手にそのような虚像の子供などにされる身にもなって欲しい――
竜は、心の中でひとしきり文句を言ってから、娘子に気付かれぬよう、そっと瞼を閉じた。
そしてその直後。それまでは考えもしなかった妙案をふと思いつく。
(そろそろ昼時だ、丁度良い。…この娘、腹の足しにはならんだろうが、昼餉として喰ってやろう)
ふとした思い付きから、よからぬことを考え始める竜。
一つ、ぺろりと舌舐めずりをしてから、ちょうど村へ帰ろうとしている最中の娘に 声を掛けた。
「おい、そこの小娘」
低くやや辿々しい、竜の重い囁き声が、木の葉を揺らし、泉の水面(みなも)に波紋を描く。
その娘は暫く不思議そうに周囲を見回していたが、おい、ともう一度竜が呼んでやると、ようやく頭を上げ、頭上にいた竜にようやく気付いた。
神子竜様。と、酷く動転した様子で、小さく言葉をこぼす娘。
どうやら竜の存在は知っていたようだが、まさか声を掛けられるとは思ってもみなかったようだ。娘は、焦りながら膝をつき、地べたに這い蹲るように額をつけた。
典型を沿ったその娘の態度に、にべもなく、竜はフンと鼻を鳴らす。
「みっ、神子竜。お声を掛けて頂き光栄です!」
他の村人らと同じような台詞を吐き、娘は畏怖の念を込めて、竜に意味のない賛辞の言葉を送る。今日もお美しい…と続けざまに言葉を並べようとするが、そんなことはどうでもいい。と竜に一蹴されてしまう。
その竜のいらえに戸惑い、口を噤んでいたが、娘はすぐに口を開き、竜に自身を呼び止めた理由を尋ねた。
「如何なされましたか」
「目に木の枝が入ってしまったようなのだ。すまんが、取り除いてはくれぬか」
「えっ?」
眠りを妨げた事か、泉の水を無断で汲んだ事に怒りを感じ、自分の事を呼び付けたのではないかと考えていた娘。まさか自分があの神の子にそんな些細な用事で呼ばれたのだとは信じられず、怯えながらも拍子抜けした様子で、顔を上げて目を見開いた。
「で、ですが、神聖な神子竜様に触れるなど…」
「構わん。早く取ってくれ」
威圧的に娘に命令する竜。娘は不安げな様子だったが、村で神と同様に崇められている竜の命令は、どういった要件であろうと、それが神聖とされる彼本人に触れねばならないような旨の命令であろうとも、無視する事は許されない。
娘は渋々と桶を地面に置き、泉の向こう側に佇む竜の傍に歩み寄った。
(嗚呼…何と愚かな。)
歩を進める娘を目を細め見つめながら、竜は嘲笑する。
人間は竜からすれば捕食対象であることなど、その矮小な脳でも少し考えれば分かるであろうに。
呪うならば、己の愚かさを呪うが良い。
そうして竜が小さく口を開き、娘に噛み付こうとした――その瞬間だった。
「――お待ち下さい、神子竜様!」
先程の怯えきった姿は何処へ。突如、娘が竜の体にあった“何か”を見て、素っ頓狂に声を上げる。視線は竜の足元に向けられているが、特に何も見当たらない。
もしかすると、竜には見えないような小さな虫でも居るのだろうか。ならば娘が声を上げるのも分かる。
竜は面食らった様子で開いていた口を閉じ、やや呆れながら何だ何だと娘の言葉に耳を傾けた。
「ここ! 怪我をされています!」
「はぁ?」
娘が指をさした先にあったのは、竜が眼を凝らして見てやっと分かるような、小さな傷だった。
皮膚の柔い部分に浅く刻まれた傷。
やたらと足が痛痒かったのはこの所為だったのか、と溜飲が下った様子で、竜は娘にこう返した。
「この程度で…そう騒がんでも良いだろう。」
「いえ、手当が必要です! 傷口が化膿してます! しっかり洗って消毒しないといけません!」
娘は言葉を捲し立て、唖然とする竜と桶を置いて村へと駆け戻ってゆく。暫くすると、大袈裟に包帯やタオルを大量に持ってきて、竜の足元に滑り込むように走ってきた。
先程水を汲んだ桶を自身の側に置き、手慣れた手つきで傷を洗い、タオルで泥や血を拭うと、ぐるぐると両腕を忙しなく動かしながら、全ての包帯を使い切り、木の幹ほどの大きさの足の傷を覆った。
「神子竜様、終わりました」
ふぅ、と溜め息を吐いてから、額に滲んだ汗を拭い、水のなくなった桶と汚れたタオルを持って立ち上がると、娘は竜にそう告げる。
「また今度、包帯を取りに参りますね」
そう言ってから、にこりと微笑む娘。
生まれてこのかた、向けられたことのなかったその穏やかな表情に、竜は、無意識の内に口を動かす。
「お前、名前は」
戸惑いながら、竜は言葉を紡ぐ。
その竜の問いに、娘もやや戸惑いながらも、小さく口を動かした。
「ソフィア、です」
切っ掛けは、ひどく些細な出来事だった。
竜は、人に恋をした。
年端もいかぬ、到底自分とは釣り合わないような、非力な幼い少女に。
そのか弱い人という生物の少女の優しさに、竜は触れてしまった。
その晩の竜は、いくら以前のように小難しい事を考えても、どうしても眠りにつく事が出来なかった。
それから二日ほど経ったある日。竜が傷の事を忘れかけていたころ、娘は約束通り、また泉へとやってきた。
空の桶と塗り薬の瓶と、大きなタオルを五枚と、大袈裟に、包帯を幾つも抱えて。
あの時の手当は反射的にやってしまっただけで、実は内心、あの娘は己の事を恐れていたのではないだろうか。それとも、泉に通うのが途中で面倒になってしまったのか、てっきりもう来ないものだと思っていた、と、竜は考える。
「おはようございます、神子竜さま。」
遅れてしまい申し訳ありません、と、律儀に頭を下げる娘。それを一瞥してから、さっさとしろ。と、竜は また そっけなく返す。
そんな無愛想な竜にも、娘はにこりと微笑みかけ、では早速。と言ってから、竜の足の包帯を解き、持ってきた桶に水を張り、手際よく傷の手当てをし始めた。
足に水を掛け、タオルでしっかりと皮膚の汚れを拭ってから、瓶一本全て使い切り、傷口に薬を塗る。
「これなら、もうすぐに治ると思います。」
新しい包帯を巻いてしまうと、娘は立ち上がり、頭を下げながら、竜から離れた。
竜には、足の傷の事など眼中になかった。
笑顔を絶やさぬその娘を見つめながら、竜は首を傾げる。
(…この娘は、一体何が目的なのだ?)
人はすぐに裏切る生き物だ。
怠惰で、自己中心的で、私利私欲のためならば容易く親でさえも捨てる。
だが、この娘からは、そのような悪い気は一切感じない。非常にか弱い印象は受けるが、悪い印象なんぞは、どこからも、ちっとも。
やはり、初対面の時の行いの所為だろうか。
だがやはり、竜の人への疑心は消えることはなく、積もってゆくばかりだった。
自分だけ気に入られようとしているのでは、と娘に猜疑心を向け、警戒を解く様子は無い。
(我をこのような気分の悪い心持ちにさせているのも、作戦の内か)
“恋”を知らなかった竜は、その感情にひどく困惑していた。
娘が来なかった間、ひどく気持ちが焦った。時の流れがいつもより遅く感じ、暫く眠れなくなった。今まではどうでも良かったのに、泉の周囲の些細な変化を気にするようになった。
このような気持ちにさせて、何をするつもりなのだ。と、竜は娘を睨み付ける。
「…どうされました、神子竜さま?」
気付くと、娘と目が合ってしまっていた。
彼女の純真な蒼色の瞳いっぱいに映る、自身の姿。
竜は瞬きを一度すると、慌てて娘から視線を逸らし、良いから早く去ね!と一喝して彼女に背を向けた。
娘はその怒号に一瞬だけ身体を強張らせると、申し訳ありません!と、動転し裏返った声で竜に返し、桶と汚れたタオルを抱えて逃げるように泉を走り去って行った。
その場に竜だけが取り残され、泉一帯が静かになる。
娘の足音も遠のいて聴こえなくなってしまうと、葉の音も、泉の波打つ音もしない、深く重苦しい一色の静寂が訪れた。
(…行ってしまった、か)
これでまた、娘は竜の前から居なくなった。理由は分からないが、また暫くはこの泉にはやってこないだろう。もしかすると、竜に怯えてもう来ないかもしれない。
そう考えると、竜は何故か、以前よりも憂鬱な気分になった。
はやく娘が来なければ、また時が長く感じてしまう。だが傍に居れば居ればで、何故だかその姿を見ていて、苛立ってしまう。
四六時中とまではいかなくて良い。どうにかして、毎日娘を泉に通わせる方法は無いものか、と、竜は地面に伏せて顎を泉の淵に乗せながら、鼻息を漏らす。
周囲に視線を泳がせていると、ふいに、鋭い鉤爪の備えられた両足が視界に入ってきた。
そこで竜は、ある事を思いつく。
「――あれ、神子竜さま。また怪我をしてしまったのですか?」
その翌日の夕方頃。
娘が以前のように手当ての用意をして泉へとやってくると、そこには、硬い腕の肌の上に大きな傷を拵えた竜が、いつもと変わらぬ退屈そうな表情を浮かべて佇んでいた。
岩のような皮膚が斜めに破け、その奥には赤黒い肉が露わとなっている。さほど酷い出血でもないが、そこからは血も流れ出していて、竜の地味な茶の肌を赤く色鮮やかに彩っていた。
その生々しい爪痕に、娘は持っていた桶をぎゅっと握り、身震いをする。人間ならば即死、良くても致命傷である。
他の神子竜さまと喧嘩でもなさったのですか、と娘が尋ねると、竜は空の彼方へ向けていた視線を地へと戻し、鋭い眼光で娘を睨むように射抜いてから、素っ気なく言葉を返した。
「何が言いたい」
「あ…い、いいえ。申し訳ありません。…ですが一応、手当てをしておきますね」
その娘の言葉に、竜は心の中でほくそ笑む。
…この傷は、他の竜との喧嘩でできたものなどではない。竜自身が付けたものである。
竜の肌を傷付ける事は容易ではない、が、竜自身のこの岩をも抉る鉤爪ならば、自身の硬い皮膚に傷を付けることが出来るのだ。
毎日こうして適度に傷を増やしていけば、娘も毎日のように手当てに来るだろう。
(…だが…)
桶に水を張る娘の後ろ姿を眺めながら、竜は傷の痛みと不快感に眉を顰め、目を細める。
唯一この計画に欠点があるとするならば、それは…この傷そのもの、だろう。
(今思えば、もう少しマシな方法はあったろうに)
これではまるで、他人に構って欲しい、欲の深い人間そのものではないか。
痛みなどいくらでも我慢できる。だが一歩間違えば致命傷にもなりかねないし、かといって力の加減も出来ないため、小さな傷は付ける事が出来ない。
毎日こんな傷を付けていく訳にもいかないし、この傷が癒えるまでに、他の計画を考えておかねば。どうにかして、この娘を泉に滞在させる方法を。
「…あぁ、本当に酷い傷ですね。痛々しいですわ」
「これしきの傷、どうともないわ」
青い顔をして腕の傷を眺める娘に、虚勢を張って威張る竜。
娘は何故かそれを不服そうな顔をしながら聞いて、その直後、乱暴に桶の水を勢い良く傷に打ち掛けた。
泉の水が傷口に滲みる。だが人間に弱みを見せることは出来ない。普段なら、もっと優しくせんかと怒鳴るところを、竜は痛みをぐっと堪え、早くしろ、と平静を装って娘に命令した。
だがそれを見て娘は、何故かふうと溜め息を吐き、持っていた薬の瓶を少し手間取りながら開いて、少し苛立った様子で薬を傷口に塗り始めた。
何か不満でもあるのか、と竜が尋ねると、娘は珍しく、攻撃的なとげとげしい口調で、竜に向かって突然説教話を始めた。
「…お言葉ですが、神子竜さま。貴方様の命は、貴方様だけのものではないのですよ」
「何だと?」
何だ、人のくせに。人間のようなちっぽけな生物が、命などとのたまうな――
…とでも言おうかと思ったが、娘のその真剣な眼差しに見据えられると、竜は何も言葉にすることが出来なかった。
それに、人間などから叱られるなど初めてのことで、怒れば良いのか、呆れれば良いのか、竜には分からなかったのだ。
「このようなことを言うのは憚られますが…神子竜さまといえど、人や獣と変わらぬ生き物です。いくら強くあっても、体が丈夫でも、大きな怪我を負ったり、疫病に掛かってしまえばすぐに死んでしまわれます」
神とも等しい貴方様に此の様な大きな怪我をされては、困るのです。と、娘は言う。
そして竜はその娘の言葉に、自身の身を案じてくれている事に対して内心喜ばしく思うのと同時に、娘が自身の身を労っているのは、自身が“神子竜”であるからだという事に気付き、それをひどく腹立たしく感じた。
自身が神子竜――村で奉られている神獣でなければ、娘にとって己は、畏怖の対象でも憧憬の的でも何でもない、自分とは何ら関わり合いのない、ただの煩わしく悍ましい害獣の一つなのだ。
竜がそんなことを悶々と考えている最中、娘はまだ長ったらしい説教を垂れていた。その姿に何故かまた竜は腹が立ち、彼女に気付かれぬよう、原因の不明な行き場のない怒りに歯を食い縛る。
(何故我は、そのような些細な事に腹を立てているのだ)
神の子であるというだけで村人から無差別に守られている事にか? 神の子などという不名誉な名を付けられたからか?
否。この怒りの原因はそんな事ではない筈だ。以前から、竜はそのことに対して怒りを感じていた。今更な話だ。
頭の中がこんがらがり、整理がつかなくなる。それにまた竜は苛立つ。
「私も四六時中、神子竜さまにお付きになることは出来ないので…」
「駄目だ」
「え?」
ついに感情の抑えが効かなくなってしまい、娘の言葉を遮り、声を荒げてしまう竜。
そして続けざまに、竜はついに、己の心の内にしまい込んでいた言葉を、無意識の内に口にしてしまった。
「主は生涯、我の側に居続けろ」
ようやく怒りの理由が分かった。
神の子でなければ、娘は己の事はどうだって良いのだ。
娘にとって己が、そのような、些細で、重要でない、取るに足らない立場であること。それが己には悲しく、ひどく腹立たしく感じたのだ。
竜は、娘の事を――
「如何されたのです、神子竜さま?」
「…手当を終えたら、早く去れ」
奇妙な事を言う竜を怪訝に見つめながら、そう尋ねる娘。そしてそれに返した竜の一言に、察しの良い娘は何かに気付く。
「まさか神子竜さま、わざと傷を」
「煩いわ。もう何も云うな」
「神子竜さま」
「煩い。喧しい。」
「私はいつでも、神子竜さまのお傍に居ますよ」
戸惑いもせず、顔を上げてただ竜を見つめ、そう言い放つ娘。
竜の影に隠れていても、その瞳は太陽のように美しく、まっすぐに輝いていた。
竜はその時、ようやく気付いた。
人を遥かに凌ぐ頭脳を持っていても、理解することの出来なかった、この感情の名に。
(…嗚呼、これが)
――これが、恋か。
竜は己が、娘の事を好きなのだという事実と、娘に抱くこの感情が“恋”というものなのだという事を知った。
それから娘は、竜の傷が完治していても、毎朝泉に立ち寄るようになった。
何をする訳でもなく、ただ娘の仕事の合間に語り合うだけ。それも、今日は天気が良いだとか、昨日の晩はとても冷えただとか、世間話ですらない、ただの身の回りの話ばかりを延々と繰り返した。娘は、村であった出来事や、友人や家族と遊んだことを、少し誇張して、おどけたように竜に語った。
竜があまり人と話さない口下手なけものだったので、最終的には娘の一人語りになってしまうことが多かったが、竜はその娘の話に相槌を打つ訳でもなく、笑っておどけ返してみせることもなく、ただ黙って、彼女を真っ直ぐと見つめながら聞いていた。
彼女が傍にいる。たったそれだけのことで、竜の心は充分に満たされたのだ。
娘は、そんな竜の心情を察していたのか、一日たりとも欠くことなく、仕事が忙しくても、天候の悪い日でも、熱を出して風邪をひいても、毎日竜の泉へとやってきた。
そして、ただ笑顔で話し続けた。
その柔らかな表情は、決して竜を前にして作ったものではない、自然な笑顔だった。
そうして、まだ未成年の娘からすると何十年にも感じられた、竜からすればあっと言う間の、数年と数ヶ月間が経った。
その日も、娘は竜の元へやってきた。
泉のほとりで、いつものように、木陰に二人で並んで座り込み、娘と竜は雑談を交わす。
泉を覗き込んでみれば、そこには、桃色の花の咲き乱れる森の木と快晴の空があった。宙を様々な色の花弁が舞い、その絵画のような美しい自然の風景を、更に美麗に彩っている。
「綺麗ですね。今年は、去年よりも花が美しい」
竜の鼻先が水面に着き、小さく音を立てて、泉全体に波紋が広がり渡った。視界いっぱいに広がっていた春の景色が大きく揺れて、また静かに元の形を取り戻す。
竜が泉から顔を上げると、目の前には、己の想い人である娘が立っていた。
相も変わらず華奢な体躯に、膨らんだ胸、やや細めな太腿。以前は短かった髪は長く伸び、幼かった顔は徐々に整っていき、竜と出逢ったあの日の娘と同一人物とは思えぬほど、娘は美しく可憐な女性に成長していた。
容姿が変わったことに少し寂しさも感じられたが、中身はあの時と何ら変わりのない、優しく、穏やかで、暖かな心を持った娘のままだ。
いくつ年を重ねても変わらない人間も居るのだな、と、竜はふと思う。そして同時に、彼女に恋をして良かったと、竜は惚気に似た思いを抱いた。
そういえば娘は、今は何歳なのだろう。
容姿からして恐らく、十七歳ほどだろうか。いや、もしかするとまだ十五そこらかもしれない――と考えを巡らせるが、竜は決して、彼女に年を聞かなかった。
年を聞く、というだけの些細な行為が、何故だかとても恐ろしく感じられ、竜は、娘と出逢って、恋をしたあの時からずっと、娘の年齢を聞いていなかった。
人の成長や老いは早い。竜の寿命が長過ぎるだけなのだろうが。
人と竜の子の時間の流れは違うのだ。
考えるまでもない。人である娘は、竜よりも先に死んでしまう――
そのことを考えるたび、竜は途方もない恐怖を感じた。
「のう、ソフィアよ」
硬い鼻先を、彼女の柔らかな身体に擦り付けるように軽く押し付ける。暖かい彼女の身体に包まれ、かすかな花香が竜の鼻腔を満たした。
竜は、過去に傷を負った時、娘に身体を触らせたことはあったが、自分から娘に触れるのは、これが最初の事だった。
珍しく甘えた様子を見せる竜に多少の戸惑いながらも、娘はそれを受け入れ、竜にこう尋ねる。
「どうしましたか、神子竜さま」
「…我の頭を、撫でてくれないか。」
その竜の言葉にまた喫驚し、娘は顔にあからさまな困惑の色を浮かべる。
頭を撫でる行為は、本来は上の者がそれより下の者にする行為である。神と等しく崇められる竜にそんな無礼をするなど、許されはしないだろう。
だが断ったところで、竜は命令に従え、と、あの日と同じことを言うだろう。娘は黙って、強張らせていた手を動かし、竜の頭へと伸ばした。
娘の小さな手のひらが、竜の額に触れる。
ごつごつとした角を探るように撫で、娘は微笑んだ。
「今日は、ずいぶんと甘えん坊ですのね。」
娘の小さな手のひらで、竜の心は溢れるほどに満たされる。彼女を視界に入れることよりも、彼女の声を聞くことよりも、気持ちが昂り、心が安らいだ。
だが竜は、彼女を満たす事は出来ない。抱き締める事はおろか、指で触れる事すら許されないのだ。
脆い彼女の身体は、竜が触れるだけで壊れてしまうだろう。
――我が人であれば、彼女を壊さず抱き締めることが出来ただろうか。
竜は、儚く脆い、足で踏み潰せば容易に死んでしまうような、この人間という生物がとても羨ましかった。
そして今ならば、この世に生まれてきた理由が分かる。
「我は、お前の為にこの世に産まれて来た」
――数十年前に産まれた我は、彼女と出逢うため、この世に産み落とされたのだ。
一族の存続など、どうだっていい。親不孝者だと罵られようとも、子を授かることが出来ずとも、構わない。
今ならば、幸せだと言える。この世の全てを祝福できる。過去の己を否定し、神を信じてやっても良い気さえする。
唯一の不幸は、己が人間でなかったことか――
「我の傍に、居続けて、欲しい」
命令も強制もしない。
願わくば、どうか、己のそばにあり続けて欲しい。
竜は、娘にまた言葉を囁く。
そして娘は、その突然の竜の告白に、また一瞬だけ驚き、先程よりも大きな動揺を見せながらも、最後にはやはり微笑んで応えた。
「そんなこと、とうの昔に言ったじゃありませんか。私は死ぬまで、貴方様のお傍にお仕え致しますわ」
柔らかな風が、竜の頬をかすめ、娘の髪を靡かせる。
泉のみなもには、愛おしそうに、そしてどこか寂しそうに、竜の頭を抱き締める娘の姿が映っていた。
「ですが絶対に、私よりも早く死ぬのはおやめください」
娘は、風に乗せて、竜へ言葉を送る。
「父は、私が幼い頃、戦場で受けた小さな傷が悪化し、自宅で命を落としました。母は女手一つで私を育ててくれていたのですが、体調不良のところを無理して、大きな病に掛かってしまい、看病の甲斐もなく…」
娘の、竜の頭を抱く手が一度だけ緩み、直後またきつくなる。
そうか、だからあの日初めて出逢った時、あれだけの小さな傷で騒いでいたのか、と、竜は娘と初めて出逢った日の情景を脳裏に浮かべ、今ではもう完治し、傷痕のひとつも残っていない己の腕に目を向けた。
娘は竜と同じように、孤独だったのか。
「お前も…」
お前も、我より先に死ぬな。
そう言いたいのを堪え、竜は口を噤む。
人の寿命は、竜の寿命の半分もない。竜よりも娘が先に天寿を全うする事は目に見えて明らかだ。
二人同時にこの世を去るなど、不可能だ。
一言でも、無責任に、そんな夢物語を語る事は許されない。
竜は娘への言葉を喉の奥に押し込み、代わりにこう彼女へ囁いた。
「ありがとう」
竜は今日初めて、他人への感謝の念を口にした。
彼女と居ると、初めてばかりだ、と、竜は照れくさそうに、娘には見られないよう、こっそりとはにかんだ。
竜と娘は、相思相愛だった。
それからもまた、二人は長い年月を共に過ごした。
桜舞い散った春宵を。
湿り陰鬱とした梅雨を。
陽射しの強い盛夏を。
木の葉の色づく秋季を。
雪霰の降り注ぐ厳冬を。
静寂に包まれた年の末を。始まりを。
飽きるほどに、二人は一年を繰り返した。
いつしか娘は成人し、家を離れ、神子竜の生贄として選ばれ、彼を祀る社の巫女として働くようになった。
いつしか巫女は若さと美しさを保ったまま齢三十を越え、村一の美青年と一緒になることを勧められたが、それを拒否し、意地でも竜の元を離れなかった。
いつしか娘と呼ばれていた巫女は、村の長ほどの齢となり、髪も白く染められ、顔を皺が刻み、老婆と成り果てたが、それでもなお美しく、気品ある雰囲気のままだった。
めまぐるしく移り変わる季節の中、二人の別れは、何の前触れも無く、静かに訪れる。
それはある年の、冬のことだった。
「ねぇ、貴方。今年ももう終わりね」
娘が、身体を丸めて地面に腰を掛ける竜に凭れ掛かる。竜はその言葉につられ、凍った泉から目を離し、娘に目を向けた。
長く艶やかだった長髪は、いつのまにか雪のように白く染まり、白い肌はより一層白くなり、そして皺だらけに変わっていた。竜はまた目を泉へ向けると、少し遠慮気味に、老いた娘にこう語り掛ける。
「こんな寒い日にこんなところに居ては体に障るだろう。そろそろ、家に帰ってはどうだ。」
「今日は雪も降っていないし、冬にしてはとても暖かいわ。もう少し、そばに居させてちょうだい」
それに、ずっとそばにいてと最初に言ったのは、あなたの方でしょう。と、娘は付け加え、皺くちゃの口角を緩ませて微笑む。竜はそんな娘を見て、顔には出さないが、内心で彼女を哀れんだ。
時が経つのは、ずいぶんと早い。
娘はもう、こんなにも変わり果ててしまった。
なんとも虚しく、物悲しい。中身はあの時あの日の彼女のままだというのに、肉体は時の流れに逆らうことが出来ず、日を追うごとに衰えていっている。
彼女の老いた体はもう、一年も持たないだろう。
「ねぇ、あなた。春になったら、旅行に行きましょう」
あなたの背に乗って、空の上まで飛んで行きたいわ、と、己に残された時間のことなど考えもせず、呑気に娘は呟く。
竜はその娘の願いに、そんなの今にでも。と言おうと思ったが、今こんな時期に旅行などをしてしまったら、彼女の体に障るだろう。
やはり春を待つしかないだろうか。だが、彼女が果たして、春までこの泉に居られるか…。
「…分かった。森の花が芽吹いたら、花見にでもどこかへ飛んでいこう」
それを聞くと、娘は黙って満足そうに頷いて、竜の首に手を回し、静かに寄り添った。
「じゃあ、それまで、ちゃんと待っていてね」
冷えた竜の額を撫で、震えた深い声で、娘は囁く。それを聞き入れ、竜は瞼を下ろし眠りに就こうとしたが、その直前、その娘の言葉の違和感に気付き、はっと顔を上げた。
ちゃんと待っていて、とは、どういう意味だ。
何を待てば良いのだ、と、竜は怪訝に思う。春を待つのは、彼女も同じであろう。一体どういう意味で、今娘は、竜にこの言葉を掛けたのだろう。
ソフィア、と、竜が娘の名を呼ぶと、娘は目尻からこぼれた何かを手で拭い、ゆっくりと顔を上げ、氷の張った泉と、痩せ細った木々の枝を見遣った。
「…ごめんなさい。私、少しの間、ここから出てゆくことになったの」
唐突に、話を始める娘。竜はもちろん、そんな話ひとつも耳にしていない。
仕事か何かか、と尋ねると、娘は無言でかぶりを振り、じっと自分を見つめる竜から、顔を背けた。
なにか、娘の様子が可笑しい。
どうしたのだ。と竜は直球に尋ねる。だがやはり娘はそれにいらえを返さず、何かを誤魔化すように、またおもむろに竜の頭に触れ、雪の中に消え入りそうな声で、こう言った。
「もしも私が帰ってきたら、あなたの背に乗せて、遥かな空を眺めながら、花見の旅行へ行きましょう」
老いた巫女の娘は、彼女自身が愛した竜と村を置いて、どこかへ消えていった。
竜に対し、犬のように忠実だった娘は、猫のように自由きままに、主の元を飛び出し、そのまま帰ってこなくなってしまった。
竜は、いつかどこかで聞いた、猫が今際の際に取るというその行動を思い出す。
竜は、娘が向かった先を知った。
その晩の竜は、ひどく荒れた。
咲き乱れる花を踏み潰し、森の木々を倒し、泉の周辺はたったの一時間で荒れ果てた更地となった。
その付近にあった村は無事だった。
娘の大切にしていたものを、無意識に守っていたのだろうか。
村人達はまた竜が暴れるのではないかと気が気でなかったが、それからの竜は一度も暴れる事は無く、以前より驚くほど大人しくなってしまった。
花芽吹く春が来た。
盛った同族の雌が、自分を招くように空を飛んでいたが、竜はそれを視界にさえ入れなかった。
太陽の照る夏が来た。
今年の夏は特に蒸し暑い。泉も熱せられ生温くなっている。いつもならば遠くの北国に避暑に行くのだが、今回だけは竜は泉から動かなかった。
木の葉落ちる秋が来た。
竜はてこでも動かないので、背中に木の葉が大量に溜まってしまった。わざわざ落ち葉の掃除をしに来た村の娘も、竜は追い返した。
粉雪の舞う冬が来た。
この年はとても寒く、竜の身はとても冷えた。葉が、虫が、氷へと変わった雪が、どれだけ背や頭に積もろうとも、やはり竜はその場を離れようとしなかった。
(ソフィアよ。お主が居てくれぬと、我の一日はひどく退屈で、長ったらしいものになってしまう)
そしてまた、約束の春は巡る。
だが娘は、どうしても現れない。
無情に時は過ぎ、何事もなかったかのように、朝日は昇る。
そして竜は、娘と出逢う前の自身の事を思い出し、己の考えは何ひとつ間違っていなかったと確信するのだった。
(やはり神など、この世には存在せぬ)
土塊の竜は羽搏かない。
今も尚、来ることのない想い人を、森の奥底でただひたすら待ち続けている。