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カクテルグラスにスコッチを。
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街角のテレビが無機質にニュースを告げる。
誰の耳にも止まるわけでもなく聞き流され、同時に街にあふれる人の全員の耳を通り抜ける。
そんな気にも留めないような音声が、記憶を舞い上げて消えてゆく。
さびれた廃ビル、遺体発見、凶器の拳銃。
撃ち抜かれた心臓、広がる血だまり。止まってゆく呼吸。
そして、そこにいれなかった、自分自身。
☆ ★ ☆ ★
『--区の廃ビルで遺体が発見され、現場から凶器の拳銃が見つかっていないことなどから、警察は殺人事件として捜査を進めています。』
平穏な日曜日の昼過ぎ、阿笠邸のリビングのテレビは物騒なニュースを告げていた。
「まったく、物騒な事件ばっかりだな。」
「あら、そんなこと言って、捜査に首をつっこんでるのはどこの探偵だったかしら。」
ニュースの内容にひとり呟くコナンに、哀は雑誌をめくりながら言葉を返す。
コナンは、まあな、と答えると、そばに置いてあったスマホを手にとる。
「高木刑事に現場写真と事件の詳細を新一のスマホにメールしてくれって頼んだからもうすぐ……」
コナンの手の中のスマホからタイミングよく着信音がなる。
コナンは半ば喜ぶようにメールを開き、ぶつぶつと読み上げながらその推察を口にする。
「えーっと、それから、遺体の胸部の銃創にはやけどのあり、か。これは至近距離からの発砲だな。それから、現場に残されていた銃弾は--」
読み上げられる事件の内容を聞きながら、哀はゆっくりと雑誌から顔を上げる。
「で、添付の現場写真は……、ってどうした灰原?」
気付けばメールの内容をのぞき見ていた哀に気付いて振り返る。
「別に。ちょっと気になっただけよ。悪い?」
「いや、悪くはねぇけど……。」
歯切れの悪い言葉をつぶやいて、コナンは再びスマホの画面に目を向ける。
メールに添付されたいくつかの現場写真をスクロールして確認していく。
それらの写真からわかる現場状況に思考を巡らせていると、すぐそばの人の立ち去る気配がした。
「私、博士の研究の様子見てくるから。事件の真相とか興味ないし。」
そう言い残して、哀はあくびをしながらコナンのいるリビングを去っていく。
「気になったんじゃねぇのかよ……」
コナンは呆れたようにぼそりと呟いて、スマホの画面に視線を戻す。
画面に映る現場の遺体は、心臓を撃ち抜かれ即死のはずが、目が閉じられていた。
ベリーニ。あれは彼女の殺しだ。
主な役回りは潜入諜報。けれども必要なら殺しもする。
会ったことはほとんどないけれど、ときに彼女の噂を耳にした。
殺しに拳銃を使う利点は、対象の間近にいる必要がないことだ。相手の目を見ないで済む。
好んでその目を見たがるヤツは、目に映る恐怖を見たがる狂ったヤツだ。そんなヤツはこの組織内でさえ数人いるかどうかだろう。
ベリーニも、対象の目を見たまま拳銃で撃ち殺すことができるひとりだ。
ただ、その目は、組織には不釣り合いなほどに澄んでいるのだと。
さきほどの事件現場で発見された銃弾は、ベリーニの愛用する拳銃のものだ。
そして、無惨にも自らが殺した相手の目を閉じてやるのも、一部の者だけが知る彼女の特徴だ。
「彼女、まだ健在なのね。」
リビングをあとにした哀は、自身の部屋に向かう廊下を進む。
博士の様子を見てくる、だなんてあの場を去るためだけの適当な嘘だ。
ひとり廊下を歩きながら、まだシェリーと呼ばれていた頃、最後に彼女に会ったときを思い出す。
『私はね、シェリーちゃんのお姉さんには死なないでほしかった。だから、あなたにも生きててほしい。』
姉の死後、研究を行わないという反抗をとり、組織からの反感が強くなりつつあったころのこと。
シェリーが消されるのも時間の問題では、と囁かれ、同時にそんな気さえしていた。
そんなシェリーのもとに、ベリーニはある日ふらりと訪れて、そんなことを言った。
『それじゃあね、シェリーちゃん。あんまり何かすると私が消されちゃいそうだから。』
去り際にそう言った彼女の目には、言葉のわりには怯えはなく、冗談めいていると同時に覚悟のようなものが垣間見えた。
ああ、これが死にゆく者を見る目なのね。
そのあまりに綺麗な目が、漠然とそう思えてしまった。
あのときはそれほど消耗していただけかもしれない。
けれど、きっと、今回も彼女はあんなふうに--。
それからもうひとつ、彼女にまつわる噂があった。
ベリーニはかつてノックとデキていた、と。
☆ ★ ☆ ★
夜のバーには人がにぎわう。
広い店内には多くの人がざわつき、目の前の相手との会話に夢中になる。
雰囲気を彩る音楽もあいまって、周りのことなど気にもならない。
そう、下手に人気のない路地裏なんかよりは、取引にずっと向いている。
そんな店内のカウンター席に、ベリーニはひとりカクテルを口にする。
身につける衣装の女性らしいデザインと可愛らしくも鮮やかな色が、彼女の大人びた印象に不思議と似合っていた。
コツリとテーブルに置かれた彼女の呼び名であるカクテルも同じ色に鮮やかで、彼女だけ周囲から切り取られた絵画のようだった。
ざわつきに背を向けるこの席は、ぽつりと抜け出たように静かで、同時に周囲の耳にその会話は届かない。
背後に広がる雑音の中に自身に近づく足音と気配に気付きながらも、平然とカウンターのカクテルグラスに触れる。
「相変わらず、よくお似合いで。」
その男はベリーニにそう言うと隣の席に腰を下ろす。
ベリーニはその声とちらりと見た姿で、目的の相手であることを確認する。
「そちらは相変わらずお世辞がお上手ね、バーボン。」
「ははは、事実ですよ。」
褐色の肌の整った顔に底の見えない笑みを浮かべて答えるバーボンに、ベリーニは呆れたようにひとりかすかに笑う。
それから手にしたカクテルを口にして、話を切り出す。
「呼んだ用件はもちろん、例の依頼の件だけど、」
「ええ。あなたならそろそろかと思っていました。」
ベリーニの言葉にバーボンはしたたかな笑みで相槌を入れる。
そのバーボンの様にベリーニはクスリと笑う。
「そうやって食えないこと言うのね。お察しの通り、無事に片付いたわ。」
「さすがですね。やはりあなたに頼んでよかった。」
互いに口元には笑みを浮かべながら、その目の奥は笑ってはいない。
そこでは相手に絡み取られぬよう、当たり前のように互いの真意を探っている。
「その件の結果の前に、ひとつ聞いていいかしら?」
「ええ、構いませんよ。せっかくの機会ですから。」
互いに微笑みを絶やさぬまま、何気ない雑談のように会話をする。
その調子のままベリーニは、じゃあ聞かせてもらうわね、と前置きして、ちらりとバーボンに視線を向ける。
「……なんのつもり?」
そのわずかに強まった視線の鋭さと語気に、バーボンは今までとは違った意味ありげな笑みを浮かべる。
ただその表情のわりにはしぐさと言葉だけは薄っぺらに嘘を装う。
「さて、なんのことでしょうか?」
「今回のこの仕事、ずいぶんと作為的に遠回りさせられた気がするって言ってるの。」
そう言うベリーニは微笑みながら片手で髪を耳にかけ、さきほどの一瞬の鋭さは感じられない。
バーボンは、ははは、それは大変でしたね、と笑いながら、片手を挙げてバーテンダーに合図を送る。
それに気づいたバーテンダーは手を止めて、ふたりの方へと足を進める。
「心当たりあるんじゃないの、バーボン。」
「さぁ?何のことだか僕にはわかりませんが、そうですね、しいて言うなら、」
目の前まで訪れたバーテンダーに、バーボンは会話をとめて目線を向けた。
「スコッチをお願いします。」
その言葉は芯をもち、ただの注文以上の響きが、少なくとも2人には感じられた。
「…………そういうこと。」
ベリーニはそう一言つぶやいて、軽い溜息をついた。
わずかに伏せたその目の表情は髪に隠され見えなかった。
「やはり覚えているんですね。ベルモットなんてコードネームも覚えてませんでしたよ。」
「そんな昔の話がしたくて、今回わざわざ私を使ったの?」
バーボンは両手の指を絡めるように組んで両肘をつき、にこにこと饒舌に話し出す。
ベリーニは優しくそしてどこか含みのある微笑みで答えた。
「ただの雑談ですよ。でも意外でした。あなたがもうこの世にはいない男のことを覚えているんなんて。」
「そうね、彼のおかげで苦労させられたから覚えているだけよ。別に思い入れがあるわけじゃないわ。」
ふたりは変わらぬ笑顔と微笑みのまま、世間話のように話を続ける。
「へぇ、では、あの噂、スコッチと恋人関係にあったという噂ことは今でも否定するんですね。」
「ずいぶんその話にこだわるのね。あの方からの疑いを晴らすのに苦労したの。もう蒸し返さないでほしいんだけど。」
クスリとベリーニは笑ってカクテルグラスを手に取る。
「一緒に仕事する機会が多かったあなたも、それなりに苦労したって聞いてるけれど。」
「僕の方はあなたと比べたらたいしたことありませんでしたよ。」
そう、とベリーニは呟いて、残り少ないカクテルを飲み干す。
そして、空になったカクテルグラスの口紅をぬぐい、カウンターに静かに置いた。
「あの頃も何度も言ったけれど、私は利用されただけよ。組織を裏切ってなんていないし、あの男ことも何も知らないんだから。もちろん、赤井のこともね。」
ベリーニはそう告げて立ち上がると、滑らかに自分の手をバーボンの手に重ねる。
そしてバーにあふれる男女のように身を近づけ、横顔に唇を寄せ、その耳元に何かを囁く。
「それじゃあね。」
ベリーニは綺麗に微笑んで言い残し、このバーから去っていく。
雑踏の中で微かに聞こえる彼女のハイヒールの足音が聞こえなくなったころ、バーボンはひとり呟いた。
「相変わらず、手厳しい人だ。」
バーボンの片手の内側には、フラッシュメモリーが残されている。
去り際にベリーニは、依頼していたデータを彼の手の中に滑り込ませていったのだ。大衆に恋愛の駆け引きとみせかけて。
『中を調べても無駄だからね』
囁かれた言葉は、ある意味でこのバーの中で繰り広げられるどの恋愛の駆け引きよりも情熱的だろう。
バーボンはフラッシュメモリーを袖の中に潜ませると、不敵に微笑んだ。
彼女に依頼した情報収集には幾重にもトラップを準備した。
気付かれぬように公安の力を駆使し、彼女自身の情報を得るために。
しかしそれらをすべてくぐり抜けて、彼女はここに、この情報を持ってきた。
おそらく、彼女の言う通り、このフラッシュメモリーからも何の情報も出ないだろう。
『悪い降谷、奴らに俺が公安だとバレた。逃げ場はもう、あの世しかないようだ。』
……じゃあな、ゼロ。
あの日、スコッチと呼ばれていた親友の最期。
あのとき、非常階段を駆け上がりながら、何度も頭の中を巡った彼の言葉。
その追い詰められた中で紡がれた文章の一番最後に、ためらいがちに添えられた言葉があった。
『もし、ベリーニが助けを求めることがあったら、手を差し伸べてやってほしい。彼女は、俺達が守るべき普通の日本人だ。』
その、最期の、一番最後に残された言葉こそが、彼女のことだった。
降谷零はカウンターの上の手のひらを強く握りしめた。
その手は思いのほか冷たく、冷や汗にぬれていた。
“スコッチとベリーニは恋人関係にあった。”
それは今となってはただのすたれた噂話でしかない。
しかしそれは、降谷零とっては、色あせることなく残る大切な仮説だ。
ベリーニとスコッチの間に何があったのか。
最期に紡いだ、彼女を託す言葉の本意は何だったのか。
なぜ、自分の命の終わりの間際に、組織の女のことを考えたのか。
彼は一体、彼女の何を見ていたのだろうか。
☆ ★ ☆ ★
ベリーニは夜の街をひとり歩く。
夜といえど夜こそ賑わう店の多いこのあたりは、決して静かではなく、ざわざわと人の声がする。
ただそれでも、その賑わうざわつきが遠く感じて、自分の足音だけが妙に耳についた。
スコッチ。
ノックとして組織を追われ、消された男。
頭が切れ、体術にも長け、殺しにも詳しく、有能な闇組織の構成員だった。
ただ、どこか温厚で、正義という言葉が似合うような気もしていた。
人を殺す感覚は、なにかが抜け落ちるようだ。
それでいて、自分の中で熱い血がめぐるような気がする。
人を失う感覚は、何か無数の情報が急激に頭に入ってくるようだ。
それでいて、どこかひんやりと、何かが私の芯を冷やしていく。
ただ、どちらも、生まれる感情は、無でしかない。
悲しみも絶望も顔を出さないまま、表に出る感情というものはとてもあっけない。
死は終わりなのだ。
残された人にできることなんて、なにもない。
償いや弔いも、死んでしまったらそれを見ることもできないのだから、伝わるはずもない。
「生きてなきゃ、なにもできないんだから。」
記憶も思い出も、ただそこに残っているだけでしかない。生きてはいないのだから。
その意味を知ることさえ、できもしない。
あのとき、自白剤で朦朧とした中で聞いた、よどみなく澄んだ声を覚えている。
『ベリーニ。……君の、名前は?』
あの夜、なぜ私は彼を呼んでしまったのだろう。
記憶の中のその声は脅迫的でもなく、むしろ、包み込むように暖かかった。
その問いに答えたかどうかも覚えていない。けれどもきっと答えたのだろう。
そしてこんな裏社会の組織に身を置きながら、名前だなんて致命的な情報を知られながら、無事でいられたこと。
彼はノックだったのだから、私を組織を暴く糸口にすることもできたはずでしょう。
それでも、そうしなかった、私が無事でいられたのはなぜ?
私が糸口になりえるほど、組織の核心にふれていなかったからなのかもしれないけれど。
それとも--、