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始まりの話
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弱い人間を辞め鬼になったが、弱い鬼になっては何も変わらなかった。
鬼になりすぐに刀を持った黒の洋服を纏った男に追われ、身を隠そうと森に駆け込むと異様な雰囲気に辺り一体は静まり返っていた。
落ち葉を踏む音、蟲の騒めき。
ギリリと糸の張る音がやたらと大きく鮮明に聞こえて足元を見れば、自分のすねにキラキラと月の光を反射して輝く細い糸が食い込んで血が漏れ出していた。
視覚からの情報を受けた後になって鋭い痛みが走り、一歩、ニ歩と後退ってその場にへたり込む。
「ねえ君、こんなところで何してるの」
何も感情が無いようで不機嫌そうにも聞こえる声に振り返ると、月の光を纏ったように白く輝くような同い年くらいの少年が立っていた。
それが鬼だと、それも自分とは比べ物にならないほどに強いものだと気付くのに時間はかからない。
それでも恐ろしさは感じず、むしろそれまで名前が見てきた全ての中で最も綺麗な少年の姿、優しい声音と眼差しに惹かれてしまう。
「人に追われていて……ごめんなさい、あなたの住処だとは知らなくて、もうすぐ人が来てしまうかも」
「いいよそんなの、父さんが守ってくれるから」
「……父さん?」
「ねえ、君も僕の家族になってよ」
「家族……」
甘美な言葉を紡がれて、名前の心が躍りだす。
月を背に、手を伸ばす彼の姿はあまりにも美しく儚げで消えてしまいそうだ。
名前の手をすくい取る彼の手がひんやりと優しく包み込んでくれるので、心地よさと久々に感じた幸福が眩しく思わず目を細める。すると優しい手の主も同じように目を細めて口元に笑みを浮かべた。
「僕は累……ねえ、君の顔すごく……」
顔が一体どうかしたのだろうか?
名前が頭を傾げると、累は長い上下の睫毛を合わせてもう一度目を開いた。
「行こう」
ゆっくり、優しく導かれて森の奥へ奥へと進んでいく。人間のような頭の蜘蛛がポカンと感情の無い顔で名前を見てくるのも不思議と不気味だとは思わなかった。
何よりも、初めて自分の存在を認め、求めてくれた累に感謝と甘く蕩けるような気持ちが勝っていた。
古くところどころ壊れた民家に着くと、累とよく容姿の似た美しい女性が穏やかな笑みを浮かべて玄関から顔を出した。
「おかえりなさい、累」
「ただいま母さん……新しい家族を連れてきたよ」
「あら」
笑みを絶やさない累の母親にぺこりと頭を垂れて挨拶をする。
「はじめまして、よろしくお願いします」
「どうぞ、中へ」
累に握られた手に導かれるままに奥へ進み部屋に入る。母親が急いで盃を用意して壁際に座ると、次々にまた累と容姿のよく似た鬼が数人集まった。
正面に座った累が糸で指を切り、盃にたらりたらりとそれを溢していく。
「飲んで」
異様なまでに集まった家族たちは皆笑みを浮かべていた。本能がこの盃に注がれた血を飲むのは良くないと警鐘を鳴らしているが、拒むことなど当然できない。初めて手を差し伸ばしてくれた累に逆らうことなどもう名前にはできない。
零さぬようにそっと、一滴たりとも残さぬように飲み干すと全身に激痛が稲妻のように走り抜けてガクガクと痙攣が始まった。
それでも愛おしいと思ってしまう累の血を吐き出すなんてことはできず、その場で伏せて必死に口を閉じて堪えていると誰かの腕が名前を支えるように引き寄せた。
抱き寄せられるような感触に目を開けば、累の恐ろしく綺麗な顔が見えてホッとする。
「累、さま」
「累で良いよ……君は、どうしようか」
優しい声音に愛しさが募ってこめかみの辺りを累の胸のあたりに擦り寄せてみると、ひんやりと冷たい手が優しく顔を撫でる。
「やっぱりこのままで良いよ、君、名前はなんていうの」
「名前」
「名前、名前、名前……」
確かめるように繰り返し名前を呼んでくれる累の声が子守唄のようで、名前はそのまま目を瞑る。
それを許すように優しく頰を撫で続ける手の感触に、ジクジクと体の奥が甘く疼いた。
目を覚ますと、名前は暗い部屋に四肢を大きな蜘蛛の巣に拘束された状態でいた。両足をやや開くように固定されているせいで少し着物がはだけて素足を外気に晒しているのが恥ずかしく、なんとか動ける範囲でもがくが余計に着崩れてうまく行かない。
最初に脛を切ってしまった時とは違い、何重にも束になっている糸は縄のように太く皮膚に食い込んでいた。しかし決して血が出るほどきつくはない。
「おはよう、名前」
「累……どうして……」
「どうして? どうしてって、君にここにいて欲しいからだよ。さあ、ご飯の時間だよ、食べて」
甘そうな赤い鮮血の滴る肉に思わず口内に涎が溢れ出る。
累が名前の口元に寄せてくれる人と思われる肉を食むと、全身の力が抜けて安心感さえ抱いてしまう。
四肢を拘束されているというのに、食欲とそれを満たされる幸福に抗うことができない。まるで餌付けされた獣のように、空腹の体に餌を与えてくれる累が愛おしくてたまらなくなる。
「ねえ、美味しい?」
こくこくと頷くと、ふわりと柔らかい笑みを浮かべた累が名前のこめかみから頬にかけて優しく指でまさぐるように撫で始めた。
「僕にも少しちょうだい」
そう言うと累は背伸びをして名前の唇についた血を愛撫するようにしつこく舐め始める。初めは驚いてビクンと体を震わせたが、舐めたり、ちゅ、ちゅと音を立てて吸い付いたりする累の唇のやわらかい感触に思わず甘えるような声を漏らしてしてしまう。とろりと蕩けるような甘い疼きを抑えられず身悶えていると、累がそのまま触れそうな距離で熱く耽美な息を吐き出した。
「可愛い、名前、君の顔」
「累……累……」
食事よりも累の唇が恋しくなりもっととせがむように名前を呼ぶが、累はうっとりとしたような笑顔で名前から離れてしまう。
「累……」
「また来るよ、名前」
切なく残酷な言葉に眉をひそめると、累は笑ったまま襖の向こうへいなくなってしまった。
後を追いかけたい、もっと触れられたい。この手で自分から触れて存在を確かめたい。どこまでも深くただ愛されたい。
名前の頭を支配するのはそんなことばかりで、手足を縛られる痛みや恐怖は鬼の体には恐ろしい朝が来るまで訪れなかった。