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こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった
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「こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった」
太宰治『人間失格』より。
(こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。)
それが私が刀剣男士と呼ばれる現世に顕現した刀剣“へし切長谷部”を初めて見た時に思ったことだった。
私の妻……は“審神者”であった。
審神者とは、古より伝わる刀剣の魂を現世に“刀剣男士”として人型に顕現させる力を持ち顕現させた後は彼らを統括・管理する者であった。審神者は時の政府が歴史改変を目論む時間遡行軍に対抗するために見出した存在であり、審神者たちは政府の求めに応じて時間遡行軍の討伐を行っていた。
妻と私は幼馴染であり、お互い実家が神社というのもあったせいか正式な約束をした訳ではないが、両家の親たちは妻と私が成人した暁には所帯を持つものだという風に思っていた節があり、そのせいか妻も私もお互い大人になれば“この人と結婚するのだろう”と思っていた。
妻とは物心が付く前から一緒にいた。妻は内気な少女で、なかなか人に打ち解けない性分であるためか、幼馴染の私の陰に隠れて過ごすことが多く、私もそんな妻を放っておく事が出来ずに、他に友はいたが殆どの時間を妻と過ごした。
そのせいか妻は、女というよりは妹のような家族のような存在だった。
このまま、ずっと共にいるのだと思っていた妻と数年間離れることになったのは、妻が時の政府から審神者としての能力を見いだされ、時間遡行軍と戦うために政府が用意した“本丸”という建物に行くことになったからだ。
その数年間、まったく会わなかったわけではなく、年に数回は私は妻に会いに本丸に行った。いくら元は刀剣とはいえ、人型になった男たちに囲まれての生活は人見知りの妻には心細い生活だったのだろう。妻は私が来る度に顔を輝かせて喜んでくれた。
本丸はまるで観光地にあるような城郭の様相を呈していたが、中は和室が多いながらも電気も通っており、パソコンという文明の利器もあったため妻と私はメールやスカイプをしてお互いの近況を報告しあっていた。
妻は私を頼りきりにしており、妻が頼りにしてくれる事が嬉しくなった私はその頃から妻を女として見るようになり、妻を愛し始めていた。
妻の審神者としての生活は忙しく、会う人間と言えば政府関係者だけであり、刀剣男士との“恋愛”は“御法度”とされていたため、その事が私を安心させていた。籠の鳥のような暮らしをしている妻と違って私は実家が神社というだけで何の力も持たないただの男だったため進学し大学に進み、普通の生活を楽しんでいた。
特に若い時分だったせいもあり、結婚するなら妻だとは思っていたが、どうせバレることはないと高を括っていたのもあり、妻とは別に“その時かぎりの彼女”を作ることもあった。
若い男に、数年間……しかも数回しか会えない女に操立てしろというのが無理な話というものだ。
後ろめたさに、誰に対してした言い訳かは知らないが私は心の中でそう言い訳しながら妻のいない生活を楽しんでいた。
妻が審神者になって2年目の春―。
本丸に遊びに行った私はそこで“へし切長谷部”と出会った。
妻は珍しく嬉しそうに彼の手を引き私にこう紹介した。
『彼がへし切長谷部さん。いつも私の御世話をしてくれてるの。長谷部さん、こちらが私の婚約者よ……ええっと……婚約者って分かる?』
と妻は自分の隣にいる彼の顔を覗きこみながら話かけた。
彼は心得ているかのように微笑むと私に向かい
『主の御世話係のへし切長谷部です。以後お見知りおきを……。』
と自分の胸に右手を当て優雅に一礼をした。
妻の本丸の刀剣男士たちは三者三様ではあるが、皆、美形揃いであり、彼もその例にもれず……滅多にお目にかかれない美丈夫だった。こちらの戦意や嫉妬の念すら起こらないほどに“へし切長谷部”は美しい男だった。けれども何故だが私は私に向かい優雅に微笑む……その端正な顔立ちを見てこう思ってしまったのだった。
(こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。)
妻の本丸に来る度に様々な刀剣男士を紹介されたが、今までそんな風に感じたことはなかった。至宝と言われる三日月宗近を見た時にすら、流石“至宝”と言われるだけのことはあると感心こそしたが、そんな風に思ったことはなかった。彼は確かに美しい男ではあったが、三日月宗近に比べると格段に劣るのは誰の目から見ても明らかであったし、実際、私もそう感じたのだが……私は何故だか彼をそんな風に思ってしまったのだ。
へし切長谷部が妻の本丸に顕現してから、妻は変わった。
いつも私の後ろで隠れていた少女の面影は消え去り、女へと成長していくさまが、本丸に来る度に、妻とメールやスカイプで会話を交わす度に見て取れた。
おそらく妻を変えたのは長谷部だろうと私は思った。
いくら審神者と刀剣男士の“恋愛”が“御法度”とされていても“禁忌”を敢えて破りたがるのが人と言うものだ。遡れば、神代の時代にイザナギやスサノオなどの……神ですら禁忌を犯しているのだ。何が起こっても不思議ではない。現に審神者と刀剣男士の恋愛が問題になっていることは妻の実家づてに、私の耳に入っていたし、私も外で好き勝手しているのだ。
例え、妻と長谷部がそうなっていても私に責める資格はありはしない。
それに……審神者と刀剣男士は決して結婚等、公の関係は結ぶことは出来ない。
その変えようがない事実だけが唯一、私の溜飲を下げていた。
その頃からだったように思う、私がわざと長谷部に見せつけるように妻の肩を抱いたり、手を繋いだりと過剰な触れあいを求めるようになったのは、時には長谷部が隣室に控えていることを知りながら妻を抱いたこともあった。
もう気配だけで長谷部には伝わっているだろうに、妻が彼に知られないように必死で声を殺すので私はワザと声を上げさせるように彼女を抱いた。
事が終わったあと、いつも長谷部の顔を見るのだが、長谷部は最初に会った時と同じような笑みを浮かべ私を見て頭を下げるだけだった。
本丸に私が来れば、妻と打ち合わせをしていても彼は笑顔で私に一礼し退室した。
彼は常に主の婚約者として私に最大限の礼を払い接してくれた。
彼は常に自分の立場を弁えていた。
やがて、審神者の任が解かれた妻が実家に帰って来た。
傍らには当然のように長谷部がいた。妻の本丸にいた刀剣男士は再び刀剣に姿を戻す者、他の審神者の元へ派遣された者や様々いたようだが、長谷部だけが行先を見つけられなかったため妻の元へ預けられたのだと妻は話した。
相変わらず長谷部は妻の傍にいたが、私の姿を見ると笑みを浮かべて退室した。
本丸にいた時と同じように此処でも彼は自分の立場を弁えていた。
やがて暫く経ち、妻と私は結婚し正式な夫婦となった。
私は結婚を機に実家の神社を継ぎ神主になり、妻は巫女として私を支えてくれた。
私と妻の神社は、顕現した刀剣男士のいる神社として賑わい、長谷部も快く応対してくれた。
数年後には子供にも恵まれ、妻との関係も何も問題がなかった。
本丸で感じた不安が嘘のように長谷部にも心から感謝して穏やかに接することが出来るようになった。長谷部も立場を弁えながらも私と妻の間に出来た子供を可愛がってくれた。
全てが順調だった。
やがて子供が長じ、私と妻は年を取り孫を抱く年になった。
長谷部は初めて会った頃のままだ。
彼だけが何も変わらないままだった。
老いを日に日に感じ、自分の人生の終わりが見えかけた……そんなある日のことだった。
妻が倒れた。病院へ搬送されたが、数日も経たないうちに息を引き取った。
傍には私、子供たちに孫たちがいた。
勿論、長谷部もいた。
妻は息を引き取る直前に手を伸ばした。
けれども、それは私にでも、子供たちにでもなく……孫たちでもなかった。
妻の手が求めた先には彼―長谷部がいた。
『うれしいわぁ……私達……やっと一緒になれるのねえ……。』
それが妻の最期の言葉だった。
妻の最期を感じて錯乱し悲しむ子や孫らには聞こえなかったようだが、傍にいた私は確かに妻のその言葉を聞いたのだ。
医師が妻の命の終わりを告げると病室は泣き声で溢れ、誰もハッキリとした景色など見えてなどいなかった。おそらく私以外は……。
長谷部の方を見ると彼は、初めて会った時のような笑みを浮かべていた。
彼の体は徐々に透けていく。
ようやく分かった……彼は最初から弁えてなどいなかったのだ。
彼は最初からこの瞬間を待っていたのだ。
妻の魂が体から離れて人間の理など何の意味もなさなくなる、今まさにこの瞬間を。
人間の寿命は精々持って百年弱……あとは肉体は灰になり何ひとつ残りはしない。
人の記憶の中で残れてもやはり百年弱も経てば自分を直接知る人間は全て死に絶え、記憶にすら残らない。
長谷部は最初から分かっていたのだ、分かっていたから私に微笑んでいられたのだ。
いや、最初から哀れみ嘲笑っていたのだ……愚かな私と言う男を……。
―そんな消えてなくなる……些末なものに拘るなど……やはり人間は愚かだな。
まるで、そう言わんばかりに長谷部は笑みを浮かべて消えてしまった。
抜け殻となった妻の傍らにただ立つことしか出来ないでいる憐れな男を残して……彼は何も言わずにただ笑みを浮かべて消えていった。
その時、私の携帯電話が鳴った。液晶画面を見ると留守を頼んでいた宮司からの着信であることが分かり、私はそのまま電話に出た。
宮司の声は震えており、先程本殿で祝詞をあげていた時に神前に飾っていた“へし切長谷部”の刀身が鞘ごと真つ二つに折れたのだと私に告げた。
『何もしていないのに……何故こんなことに……どうしましょうか?何故こんなことに……。』
と問いかける宮司の声は耳に携帯電話を当てている筈なのに、どんどん遠くなっていく。
私は長谷部が居た場所に再び目を向けた。
そこには壁に埋め込まれた鏡があり、鏡の中には酷く老けきり両の目から涙を流す老いぼれたみすぼらしい男の姿が映っていた。
それを見た私はこう思った。
―嗚呼……。
(こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。)