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グロテスクなセレナード
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秋が深まり、木々は赤や黄色に美しく染まっている。
金色に輝くイチョウ並木の下を、のばらと観月は歩いていた。
のばらが何度撒こうとしても上手く対応して付いてきて、もう半ば諦めた気持ちでいた。
二人きりの時は二人だからどうでも良い。
そのことをまるで察しているのか、観月が絡んでくるのはほとんど誰もいない時だけになった。
観月を慕う女子生徒たちの数も徐々に落ち着き、自分では釣り合わないと身を引いた少女たちの諦めた顔は可哀想でもあったが、自分へ憎しみの矛先がまだ向けられていないことにのばらは安堵していた。
それでもやはり恐れていた自体は密かに進行していて、観月に好意を持った少女たちはのばらに熱い眼差しを送る観月を見るたびのばらへの憎しみを募らせているようだった。
「買い出しに付き合ってくださって、ありがとうございます」
頼まれると断れないのばらを知っていて利用しているのだろう。テニス部の後輩でなくわざわざのばらを連れて行く理由を彼女は察している。
「ううん、テニスとかそういうスポーツ用品のお店は初めてだったから楽しかったよ。ガットにもたくさん種類があるんだね」
買い出しの手伝いのはずなのに、のばらが持っている荷物は自分のバッグと彼が最初に持っていた買う物のリストや地図の挟まったバインダーだけだった。
「ええ。張り方でもまた違いが出てくるので、いろいろ試して自分にあった物を探さなければいけないんですよ」
「勉強になるなぁ」
「おや、テニスにもご興味がお有りですか?」
「えへへ、ちょっとだけね」
「今はスケートに専念してくださいね」
息が詰まりそうになる。
観月に再会をしてから、遠く遠く離れた場所で楽しげに踊る自分の姿が何度も頭の奥に現れては幕を降ろされ闇の中へと放り込まれる。
冷たいスケートリンクの上に落ちた彼女に向けられる賛辞は、氷に冷やされて肌を突き刺すように鋭い。
空っぽになってしまったロッカーのノイズにまみれた映像がチカチカと瞼の内側に、瞬きをする度に現れてはのばらに酷い頭痛を起こさせる。
1年生の初夏の記憶。空っぽのロッカー、悲鳴、夕方の闇の始まりに溶け込む白のワゴン車。
「観月くん、わたしね、本当は」
目と目が合うと、今度は一年前の秋に浴びた女子生徒たちの視線が心の中に降ってきた。それはのばら自身の心を冷静にさせるのに十分だ。
「軟式と公式の違い、今日初めて知ったんだ」
「んふっ、なんですか急に。そんなことテニスをやった事ない人は知らなくても仕方ないですよ」
「フィギュアとスピードくらい違ってたよ」
「その二種類は明らかに別物じゃないですか」
改札機にカードをかざすピッという軽やかな音。観月の言ったとおり丁度待ち時間が短く済んだ電車。休日だというのに乗客の多さに正直不安な気持ちでバインダーを抱える腕の力を強める。
横に並んでいる観月を横目に、きっと男子と一緒なら大丈夫だと自分に言い聞かせる。
のばらはずっと理不尽な好意を抱かれる。きっと釣り目で意地悪そうな美女であればこのような目には合わないのかもしれないが、さらさらの髪を伸ばした色白ののばらは何をされても身を委ねそうに見えるのだろう。
人の多い電車内ではあまり喋ったりしないようにしているのだろうか、観月は視線を窓の外に向けてのばらを見ようとはしない。
制服を着るようになってから、電車に乗ると度々ソレにのばらは遭遇する。
そして今日もまた少しずつ確かめるように、最初は荷物、手の甲のようなもの。段々と触れている時間が長くなるソレはスカートの上から執拗に形をなぞるように触れてくる。
ここで観月に助けを求めたら、特別な関係になってしまうのではないだろうか。距離が変わってしまうのではないだろうか。自分から彼に近付くという禁忌に触れたら、また一年前のように……
「おい! お前何をしているんだ!」
いつの間にかギュッと閉じていた瞼をゆるゆると開いて、強い怒気を含んだ声のする方を見つめる。
いつも穏やかな顔の彼が初めて歪めた表情。人形のようだと思っていた横顔が憎悪に塗りつぶされ、眉間に刻まれた深い皺や初めて大きく開いた口に思わず見惚れてしまう。
「やってない、やってないぞ俺は!」
焦って逃げようとする男の腕を、いつもラケットを握っている手がしっかりと掴んで放さない。
「いい大人が恥ずかしくないんですか? 次の駅で降りてもらいますよ」
掴んだ男から庇うように間に入る観月にのばらは涙が溢れて出て止まらず、人前だというのにグスグスと鼻を啜りながら俯いて泣いた。
観月はいつものばらの心を察して寄り添ってくれる。それが今、のばらにとっては何よりも心強くかけがえのないものになっていた。
「まったく……それにしても学生のお兄さん、かっこいいね。女を守る、それが真の男ってもんさ」
駅員室で観月に代わって男を非難する駅員。年配の駅員は観月に時代錯誤のような賛辞の言葉を送るがそれも今は優しい言葉に聞こえた。
駅員が警察に連絡をしている間ずっと加害者の男は号泣しており、被害にあったのばらよりもまるで自らが被害者かのようだった。
観月は警察に事情の説明までするつもりでいたようだが、のばらはかぶりを振った。警察官に自分が何をされたかを思い出して説明することすらつらく、目の前で号泣する責任能力の無さそうな精神状態の男から離れたかった。
何も聞かず、それを受け入れた観月と共にまた電車に乗る。
観月は自然な流れでのばらを壁際へ立たせると、自分は他の乗客との間に入るように彼女の正面に立った。
荷物を持っていない方の手でスマートフォンを取り出し、数回タップとスクロールをしてから画面をのばらへ向ける。
「最近、寮でバラを育てているんですよ」
「すごく綺麗……。ありがとう観月くん、助けてくれて」
「いえ、嫌な思いをする前に気付けなくて……一緒にいたというのに……」
自衛をしろとか、スカートの丈を伸ばせだとか、容姿のおかげなのだから光栄に思えだとか、そんなことを言ってきた人たちとは明らかに違う観月の言葉にのばらはモヤモヤとしていた過去の自分の心から開放されたような気持ちになった。
「本当にありがとう……観月くんって王子様みたい」
「……こんなことで王子様になんてなりたくなかったですよ」
観月の声は悲しみからかいつものような堂々とした覇気のようなものが感じられず、それまで大人の男に堂々と立ち向かっていった時に無かった恐怖のような何かが、冷静になってようやく彼のもとに現れたようだった。
「君に怖い思いや辛い思いをさせてしまうのなら、そんなものになりたくなんて……」
「……でも、助けてくれた事がわたしは嬉しいよ。わたしは一人が多かったから……観月くんが来てから、なんだか調子が狂いっぱなし」
視線が交差する。いけないと思いつつも観月の目を見つめ続ける。
「名字さんは、お一人がお好きなんですか?」
夕方の黄色い空の光が窓から注ぎ込んで目の前の観月の顔を照らす。
少し色素の薄い観月の瞳に通り過ぎていく景色がチカチカと映っている。
のばらはルドルフに来てほんの数カ月のうちに起きた出来事の記憶を手繰り寄せ、ゆっくりと言葉を紡いでく。
「わたしは」