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別れの歌
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別れの季節。涙を流しているのはほとんど高校生と教師だ。中等部の生徒で涙を流すのはほんの一部で、惜別の悲しみを実感している生徒はごく少数かもしれない。
「1組の名字さん、高校から別の学校って聞いた?」
「えっ、うそ、なんで?」
「高等部から演劇部に入ろうと思っていたのに……」
ひそひそ話はすぐに広まり、空気を伝って感情は感染する。
のばらは向けられてくる視線に表情を変えない。ただ、今は最後までぴんと姿勢を崩さずにいることだけを考えていた。
立つ鳥跡を濁さず。これから人々の目に触れ簡単に噂される存在を目指すのだから下手に存在を印象付けるのは嫌だった。
透明人間を演じるのは久しぶりだ。春休みの話題で盛り上がり周りの見えていない生徒たちの影に溶け込んでたくさんの視線から逃れる。
最後の教室。事前に卒業アルバムの購入を希望した生徒が順番に教師に呼ばれた。
中高一貫校ではあまり中等部の卒業アルバムの購入を希望する生徒は多くはないはずだが、ページェントからまた更に有名になってしまったのばらの写真を手に入れようと考える生徒は多く、今年は昨年の倍の購入希望があった。
特に、部活動紹介のページに使われる写真が王子の格好のものだという情報が漏れてから女子生徒を中心にかなり需要が増したようだ。
「名字さんのアルバムはこっち」
にやり、と笑う教師に頭をかしげる。
手渡された紙袋の中には卒業アルバムだけではなく、いつの間に用意したのかクラスの女子生徒たちによる手作りのアルバムが入っていた。
せっかく平常心を保ち、透明に消えてしまおうとしていたというのに、涙は流さないと決めていたのに目頭がじわじわ熱を持っていく。
のばらを見てクスクス笑っている女子に「もー」と声をあげて席に戻る。
待ちきれずに2冊のアルバムを開いて、徐々に周りに集まってくる生徒たちと懐かしい思い出を語らう。やがて卒業アルバムの最後のページを開くと、白紙のはずのページはすでに寄せ書きでカラフルに余白も全て埋められていた。
ふざけて誰かが校歌を歌い出すと、やがてそれは教室の中を包み込む。
のばらはうまく歌うことができない。
顔をぐしゃぐしゃに涙で濡らして、しゃくりあげるその姿はどれだけ情けないのだろうか。それも可笑しくなるほど嬉しく、泣いているのか、笑っているのかよくわからなかった。
のばらはまるで夢でも見ているかのような気持ちでいた。
転校してからしばらくは辛く、人々に与えられる視線の鋭さに息ができなくなりそうだった。透明を選び、誰にも好かれず嫌われない時間はひどく退屈で、夢や希望などもなく何のために生まれ、生きているのかわからなかった。
観月と出会い、全てが変わった。
失うばかりだった人生で、初めて失ったことで手に入ったものを愛おしいと思った。
好きな事をして、好きなように生き、好きな自分になりたい。
失うことは辛いが、それだけではなく新しい出会いを与えてくれる。失ったものをまた取り戻すという選択もまたそうだ。失って初めて大切さに気付くこともたくさんこの世にはあった。
ひと足早く山形へ一旦帰ることになったのばらの荷物を、駅まで代わりに持って歩く観月の横顔は優しく綺麗だ。見つめているだけで不安がほんの少し和らぐ。いつの間にか観月は少し大人びたような気がする。
「はじめくん、約束忘れないでね」
教会で過ごした時間を思い出し、肌身はなさず身につけているネックレスに触れる。
「ええ、忘れません」
「ずっとずっと、わたしのこと好きでいてね」
「ボクは何があってもずっと君だけを愛しています。どうかボクを信じて」
のばらが改札の方へなかなか一歩を踏み出せずにいると、背中を優しく観月が押した。
「君は、君の好きな事を好きなようにして、楽しそうに笑ってください。それがボクの何よりの幸せなんですから」
振り返るといつもの優しい笑顔がそこにある。
のばらは選択した道を一歩一歩進み出す。
辛くなったとき、振り返れば彼が笑っているのだ。
「きょうは……駅はたいへんな人ですこと」
ぼそりと呟いた冗談は、もう観月の耳には届かない。
話したくないのに話さねばならなかったマリー・アントワネットと、話したくてももう暫く会って話せることが無いであろうのばら。悲しいのはどちらなのだろうか。
これほど離れてしまっては、観月ものばらの頬に伝った涙にきっと気付かないだろう。
それでも向かう先は眩しく輝きは途絶えたりはしない。
のばらは輝きに選ばれた特別な人間だ。