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睡蓮花 2
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こわい たすけて
そんな声が聞こえたから、私は迷わず手を伸ばしたのだ。
+ 睡蓮花 2
ジムバッジを6つ獲得するところまでは簡単だった…というと語弊があるが、イオンにとってはそう難しいことではなかった。
なぜなら6つ目までのジムリーダーは扱うポケモンがわかりやすく、比較的対処しやすい。とはいえ草タイプだから炎をぶつければ勝てるような気軽さではないにせよ、ある程度特性がわかっているポケモンが相手であれば問題ないのだ。
問題なのは7つ目のジムリーダーであるネズ。彼の扱うあくタイプポケモンというのが非常に難しい。
イオンの出身地にはほとんど見られず、そもそもあくタイプと名付けられたのもここ数年のこと。研究中の部分が多く、未だ謎に包まれているポケモンたちがほとんどだった。
地元を出てからいろんな土地を回り、いろんなポケモンを見てきたが、あくタイプポケモンはどこにいってもある種の難しさがあった。悪い子たちではないが、気難しかったり妙に斜に構えていたりと、可愛さよりも手を焼いた記憶がわずかに勝る。
ガラル地方は特にあくタイプポケモンが多い。ジムチャレンジにあたりポケモン博士に話を聞いたり、実際チャレンジが始まってからワイルドエリアでいろいろと対策を練ってはみたものの、百パーセント対策が出来ているかと云うと自信がない。もちろんどんな相手でも打ち負かすつもりで挑むけれど、若干の不安が付きまとう。
ジムチャレンジ期間に余裕はあるし、調整と云う意味でワイルドエリアに籠ってはみたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。それに何故か迷子のチャンピオンに遭遇するというハプニングもあって、改めてイオンは気を引き締めた。
今、そんなイオンの目の前にはスパイクタウンのジムリーダー・ネズがいる。ジムバトル真っ只中である。
イオンは2匹戦闘不能にはなっているが他の手持ちは健在で、今場に出ているマホイップが想像以上の活躍を見せている。スカタンクの【どくどく】をまともに食らった時は冷や汗をかいたが、負けじとマジカルシャインで応戦し、たった今なんとか戦闘不能に追い込んだところだ。
残りは1匹。このままいけばマホイップで最後まで走り抜けられるだろうとイオンは踏んだ。
「いけタチフサグマ、【じごくづき】!!」
「ッマホイップ、躱して!!」
当然だが相手は実力者であるジムリーダー、手加減なしで嫌な技を放ってくる。残りの手持ちはこちらの方が多いとはいえ、油断は禁物だ。
今フィールドに現れたタチフサグマは、ジグザグマが進化したマッスグマの最終進化形。ガラル特有の進化だそうで、イオンもつい先日初めて見たばかりだった。身体能力も大幅に上がっているようで、一筋縄ではいかなさそうだ。
さてマホイップ一匹でどこまで踏ん張れるか、と考えていると、ふと違和感を覚えた。いつまでたっても指示を出されているはずのタチフサグマが攻撃してこない。
「? タチフサグマ?」
「ぐぁぅ、ゥ…」
「………?」
様子がおかしかった。
モンスターボールから出てきたばかりのタチフサグマは、何故か苦しそうにしている。普通ジム戦の前にポケモンたちを回復させて万全の状態で挑むはずだ。だからいきなり毒やらまひやらの状態異常で出てくるはずもない。
それなのにこのタチフサグマの様子は明らかに変だった。
ネズも、指示通りに動かないタチフサグマに怪訝そうな顔をしている。
まさかこれもあくタイプ特有の作戦なのかとイオンが勘繰っていると、はたとタチフサグマと目が合った。
そして。
―――たすけて
―――こわい
「………!!」
瞬間、事態を把握した。
言葉よりも先に身体が飛び出して、イオンは一気にネズのもとに走る。別にリアルファイトに持ち込もうと云うわけではない。
当然フィールドにはポケモンがいるが、その横を突っ切ってきたイオンの行動にはさしものネズも呆気に取られた。
「ジムリーダー、試合は中断です。タチフサグマを移動させましょう。このままだとここが危ない」
「は? どういう…」
いきなりそんなことを云われても、はいそうですかと承諾できるはずもない。
まずバトル中に対戦相手に接近するルール違反と危険行為について言及しなければ、と口を開こうとして、それより先にイオンの口から飛び出してきた言葉に絶句する羽目になった。
「あの子のことが大事なら、今だけ私にモンスターボールを預けてください」
「な、」
「早く!」
まんまと二度目の絶句である。
反射的にネズが持ったモンスターボールをほとんどひったくり、イオンは一度周りを見渡した。
「この近くに広い場所はありますか? 遮蔽物が何もない、屋外で」
イオンが何をしようとしているのかはネズにはわからない。しかし、苦しそうなタチフサグマに何かが起きているのは明白で、現状有利だったイオンがわざわざバトルを無効にしたがる意味はないと考えた。
それに眼を見ればイオンが真剣で、且つ敵のポケモンであるはずのタチフサグマを助けるために動いていることはわかる。
協力するには、それだけで十分だった。
「ここを出て右の通路をまっすぐ行けば、スパイクタウンの裏手に出ます。そこなら空き地になっているので誰も何もいないはずです」
「わかりました」
頷くと、イオンはボールを持ってタチフサグマに近づいた。そして何かを堪えるように呻いているタチフサグマのすぐそばに膝をつき。
「大丈夫。今だけ私の云うことを聞いてね」
その声の穏やかさに、ネズは驚いた。
さっきまでは視線だけで見るものすべてを射殺しそうな鋭い顔をしていたくせに、そんな顔も出来るのか。
あとこれは自慢ではないが自分のポケモンは自分と実妹にしか懐いていない。敵対心を抱くと云うよりも、自分たち以外には興味を示さないと云った方が近いかもしれない。
だから、そんなタチフサグマが大人しくイオンの云うことを聞いてモンスターボールに収まったことが信じられなかった。
「ジムリーダーも一緒に来てください。この子が落ち着いたときには傍にいてあげてほしいので」
タチフサグマが入ったモンスターボールをしっかり持ったイオンは、ネズが呆けているのもお構いなしに腕を掴んで走り出した。
ネズは今何が起こっているのか把握できずに困惑するばかりだ。タチフサグマに何が起きているのか、何故自分はチャレンジャーに手を引かれて走っているのか。割と物事を冷静に捉えられる方だと思っていたが、これはちょっと認識を改めなければならないかもしれない。
対してスピードは緩めないままちらりとネズを振り返ったイオンは、静かに云う。
「念の為お尋ねしますが、ジムリーダーはダイマックスバンドをお持ちですか?」
「いいえ。オレはダイマックスはしない主義なので支給されたものは家に置いてあります」
「そうですか。私も支給されましたが、ホテルに置きっぱなしです。ということは今あの場でダイマックスバンドを持っている人はいなかったんですね」
「…どういうことです? オレのタチフサグマに何が?」
「わかりません。だけど、この子は今戸惑っています。自分の意思じゃなくダイマックスしそうで、怖がっているんです」
本日三度目の絶句である。
ネズはダイマックスを使わない。だからダイマックスバンドは持ち歩いていないし、そもそもスパイクタウンはパワースポットでもない。誰にもダイマックスの意思はなかったというのに、何故急にこんなことになるのか皆目見当もつかなかった。
けれど理由を考える暇などなかった。
現に今タチフサグマが入っているモンスターボールには、ダイマックスする前兆があった。サイズこそまだ通常のモンスターボールの大きさだが、紫色のデータグリッド状に変化している。
俄かに信じがたいが、これは現実として目の前で起きていることなのだ。
これだからダイマックスは。
ネズがダイマックスを嫌う最大の理由は、まだ完全に解明されたわけでもない技術を使ってバトルを盛り上げようとすることた。
どういう仕組みでどういう理由でダイマックスが起きるのか、すべてがわかっていればまだいい。
しかし、ねがいぼしから作ったダイマックスバンドとガラル粒子があればダイマックスします、強くなります、ポケモンへの影響は今のところありません、さあみんなダイマックスしましょう! と云われて何故受け入れられるのか気が知れない。
まず不明な点を明らかにして、ポケモンに対して悪影響がないことを証明して初めて公に使い始めるべきだとネズは思うのだ。
ダイマックスがガラルの文化として根付いてしまっている以上、反ダイマックスとは云わないが、そういうわけでネズはダイマックスアレルギーだった。
八つ当たりとしてここにいないローズ委員長に対して心の中であらん限りの罵詈雑言を浴びせながら走り続けると、空が開けて空き地に出た。
なるほどここは直接町の外に繋がっていたらしく、空き地と云うよりほぼ平原に近い。
「おいで、タチフサグマ。ここなら出てきても大丈夫よ」
イオンは手ごろな柔らかい草の上にボールを置いて声をかけた。が、聞こえているはずなのに、タチフサグマがボールから出てくる様子がない。
「…出てきませんね」
「この子は今まで一度もダイマックスしたことがないんですよね? 多分、今ボールから出たらダイマックスするのがわかって怖いんだと思います」
何故そんなことがわかるのだろう。
いい加減、ネズにはイオンが不思議でしょうがなかった。思えば最初からイオンはタチフサグマの云いたいことがすべてわかっていたような感じだった。誰より長い時間いたはずのネズではなく、今日初めて会っただけのイオンのほうが、自分の相棒のことをわかっているというのは些か面白くない。今そんなことを云っている場合じゃないのはわかっているが、疑問に思うのは仕方ないだろう。
そんなネズを余所に、イオンは必死にボールに向かって話しかけた。
「大丈夫。ここには私たちしかいないし、あなたを傷付けることは何もしない。そのままボールの中にいるほうがよくないのはわかるでしょう?」
まさか、と思う。
人間とポケモンとでは言語の壁がある。生物としての進化の過程に大きな違いがある為、ポケモンが鳴き声以外に言葉を発することはまずない。どこかの地域に人間の言葉を話すニャースがいるという話を聞いたが、それだって眉唾物だ。
だから人間とポケモンが心を通わせるというのはあくまで気持ちの問題であり、実際言葉を交わして理解し合うわけではない。
けれど、まさか。
「…ごめんね、無理やりにでもボールから出てもらうしか…」
一つの可能性に行きついて息を飲んでいたネズは、ハッとした。
頑なにボールに籠るタチフサグマを直接手でこじ開けようと、イオンがモンスターボールに近付こうとしたその瞬間だった。
「っあぶない!!」
ダイマックスのパワーに耐えられなくなったモンスターボールが壊れた。ゴォ、とまるで小さな嵐でも起きているような音を立ててタチフサグマが出てきた。
そして先ほどイオンが云った通り、ボールから出た途端にすさまじいエネルギーを放出しながらダイマックスした。その衝撃で一時的に突風が巻き起こり、ボールの近くにいたイオンは軽い身体が災いし、軽く数メートル吹き飛んだ。ネズは咄嗟に手を伸ばしたが間に合わず、イオンは地面に叩きつけられた。一瞬最悪の状況を思い浮かべたが、運よくイオンは柔らかい土の上に投げ出されたらしい。しかしそれでもダメージは避けられていないはずで、苦し気に体を起こしたイオンのせめて壁になろうと倒れたイオンの前に膝をついた。
「大丈夫ですか!?」
「っ、…なんともありません」
それは今吹き飛ばされた拍子にぶつけて擦りむいた肘と飛んできた石で切った目の上から血を流しながら云う言葉ではない。
普通なら無理やりにでも後ろに下がらせて手当てするのだが、いかんせん今は状況が状況だ。ここでイオンに手を引かれたらネズ一人では完全にお手上げになってしまう。
己の情けなさに舌打ちしつつ、せめて目の上の止血はしないと見た目があまりにもグロい。毎朝妹がハンカチを用意してくれてよかったとこのとき心底思った。柄も普通に白黒のストライプなのでおかしくもない。それを黙って差し出すと、イオンは少し戸惑ったあとに大人しく受け取って傷口に当てた。
「…やっぱり、無理矢理ダイマックスさせられて混乱してるみたいです。ジムリーダー、今ポケモンは」
「ついさっきあなたに戦闘不能にさせられたところですよ」
「っそうでした。…おいで、ラプラス」
タチフサグマがネズの最後の一匹だったことを思い出し、少々バツの悪さを感じつつイオンは自分の手持ちからラプラスを出した。水場はないが、今のイオンの手持ちの中では一番この状況に適している。
案の定怪訝そうな顔をしたネズへの説明は後回しで、イオンは異様な力に溢れている場に出されてしまったラプラスに向き直った。
「混乱して興奮しているだけで、あの子は暴れたいわけじゃないの。なるべく傷つけたくない。【メロメロ】にしてから【ねむり】を」
するとラプラスは得たりというように頷いて、早速技を繰り出した。
が、力が制御できていないタチフサグマはどうしても技をはじいてしまう。彼を落ち着かせたいだけだと云うこちらの意図をわかっていても、混乱状態で自分でも何をしているのかわかっていないのだ。これでは埒が明かない。
いっそこのままタチフサグマの力が尽きるまで放っておくのも手かとも思う。普通のダイマックスであれば長い時間はもたないので放置でもいいかもしれないが、しかしこれはパワースポットでもダイマックスバンドを持っているわけでもない状況での原因不明のダイマックスだ。イレギュラーが重なりすぎていて何が正解なのか見当がつかなかった。万が一街の方に被害が出るのは絶対に避けたいし、苦しんでいるタチフサグマをそのままにするのはネズの心情的にも無理だ。
今もラプラスは技を繰り出しているが、すべて空振りに終わっているようだ。ではどうするのかと思えば、イオンは立ち上がってまたタチフサグマに向かって行った。
いや馬鹿か。
たった今同じことをして怪我したくせに何をやっているのか怒鳴りつけてやろうかと思ったが、イオンが考えなしには動かないことはもうわかっている。
無茶だが何か策があるのだろうと、飛び出したい気持ちを何とか抑えてネズはイオンを見守ることにした。もちろんもしもの時には引っ張ってでも担ぎ上げてでも逃げるつもりである。
じりじりとした気持ちでイオンを見守るネズを置いて、イオンは何度はじかれても【メロメロ】を出し続けるラプラスの横に立ち、タチフサグマに向かって叫んだ。
「聞いて、タチフサグマ! ダイマックスは怖くないのよ! ネズさんがダイマックスを使わないのは危険だからじゃなくて、ポリシーの問題。現に他のジムリーダーやトレーナーはダイマックスを普通に使うでしょう? だから怖くない。決して悪いものではないから安心していいの。急にダイマックスしちゃってびっくりしたね、怖かったね。でももう大丈夫だから、落ち着いて、―――おいで」
手を伸ばす。
優しい声。
優しい笑顔。
思わず隣にいたネズが見惚れるほど、穏やかな表情でイオンはタチフサグマに手を伸ばした。
エネルギーによって空間が歪み、自分たちの何十倍も大きく見えるポケモン相手に、イオンは恐れる様子は微塵もなかった。
下手をすれば攻撃されるかもしれないのに。あくタイプは暴走すると手が付けられなくなることが多く、元来その性格は攻撃的だ。それを知らないわけではないだろうに、イオンはあくまで穏やかだった。
「おいで?」
それはまるで、小さな子供に語り掛けるように。
手を伸ばし、繰り返す。
その様子をネズは、黙って見つめた―――見つめる以外、出来なかった。
すると漸く落ち着いたのか、それともラプラスの【メロメロ】が効いてきたのか、はたまたイオンの声が届いたのか、一度大きく身体を震わせながら吠えたタチフサグマからどんどん力が抜けていくのがわかった。
時間にしたら1分にも満たなかっただろう。けれど、その様子を見つめるイオンやネズには10分にも1時間にも感じた。
そうして最初にモンスターボールを置いた場所には、力を使い果たしたタチフサグマが横たわっていた。もちろん、もとの大きさに戻っている。
イオンもネズも今度は迷わず駆け寄り、倒れたタチフサグマの横に膝をついた。
「…ね、大丈夫だったでしょう?」
その言葉にタチフサグマは小さく頷き、実は後ろで控えていたラプラスが【ねむり】を掛けて、ゆっくりと眠りに落ちて行った。
先ほどまで周囲に溢れていたガラル粒子のエネルギーはすでに散っている。
これでやっと、事態は収束したのである。
恐らくタチフサグマが凄まじい精神力で暴れ出したい衝動を抑え込んだのだろう。周囲への被害は皆無だった。
その辺りも含めて、ふたりはホッと息を吐いた。
* * *
すやすやと眠るタチフサグマの頭を撫でながら、イオンは小さく呟いた。
「…スパイクタウンはパワースポットではないと聞いていました」
「そのはずだし、ダイマックスバンドもなしに勝手にダイマックスするなんて聞いたことねーですよ」
ダイマックスはパワースポットありきのものだ。だからガラル以外では見られない現象で、ガラルの文化とされている。
そしてそれを可能にするのがダイマックスバンドで、ガラル粒子やらねがいぼしやら、いろんな要素を取り入れて初めて人間がコントロールできるようになるはず、だった。今回のことでそれが完璧ではないということが証明されてしまったわけだが。
「…どうして、急に」
今日スパイクタウンにやってきたジムチャレンジャーは、イオンを含めて5人。彼らとバトルしたときには何もなかったように思える。少なくともいつも通り戦えて、当然イオン以外のチャレンジャーには全勝した。
こうなるとイオンが原因なのかと思うところだが、それは違うだろう。怪我をしてまで手を貸してくれた人を疑う人でなしにはなりたくなかった。
だから嫌いなのだ、ダイマックスは。
そもそも得体のしれない力を使おうと思い、それを公式試合にも使うと云うのがネズは気に入らない。他人が使うのは勝手だが、それを強要されることに反吐が出る。
今回のことでますますネズはダイマックスアレルギーになっていた。
「ともあれ、あなたには礼を云わねばならないね」
イオンがいなければ、どうなっていたかわからない。
少なくとも、あの狭いジムで高濃度のガラル粒子が力を発揮したら、街自体破壊されていた可能性もあった。街を傷付けるのも嫌だし、これをきっかけにやっぱりパワースポットのある場所にジムを移転するなんてことになるのはもっと御免だ。
そういう意味でも、イオンは恩人だった。
しかしイオンは静かに首を横に振る。
「気にしないでください。今日のバトルは後日仕切り直しましょう」
「…いいんですか?」
ちょっと拍子抜けして問えば、イオンはキョトンと首を傾げた。
「いいも何も、そういうものでしょう」
救けてやった礼にジムバッジを寄越せ、くらいのことを云われても仕方ないと思っていたのに、いや今更イオンがそういう人間でないことくらいはわかっているが、まさかあちらから再戦を申し込まれるとは思っていなかった。
「お互い手の内がバレていては戦いにくいでしょうに」
「それで勝てたら本物の強さということです」
なるほど、一理ある。思わず納得してしまった。
イオンの見た目は深窓の令嬢でも通用しそうな線の細さだが、先ほどの件といい今の台詞といい、見た目とは裏腹に随分男らしい。
これは大人しくこちらが折れるべきだとネズは小さく笑った。
「わかりました。ではお言葉に甘えて、二日後に再戦です。明日は念の為病院に行ってください。手配はこちらでしますから」
「はい。恐れ入ります。じゃあ、今日のところはこれで失礼しま…」
す。
そう云って立ち上がろうとしたイオンは、しかし何かに引っ張られるような力のせいでぺたりともう一度その場に座り込んだ。
何事かと思い下を見て、唖然とする。
「…握ってますね」
「…握られていますね」
なんと眠るタチフサグマが、しっかりとイオンのスカートを握り締めているではないか。
試しに少し引っ張ってみたが、うんともすんとも云わない。それ以上引っ張るとスカートが破けて恥ずかしいことになってしまう。
「…これは、困りましたねぇ」
新しいモンスターボールに入れようと試みたけれど、それも弾かれた。
今までこんなことはなかったし、ネズ自身もタチフサグマにこんなことをされたことがないのでほとほと困ってしまった。
男であれば脱いでもどうにか出来るかもしれないが、さすがにイオンにスカートを脱いでくれとは云えない。そんなことで捕まりたくない。
さすがに困った顔になったイオンは、ややあって小さく提案をしてきた。
「…ジムリーダーさえ良ければ、この子、今晩私に預けていただけますか? きっと一度ゆっくり眠って、明日目を覚ませばもう安心すると思いますから」
今起こすのは可哀想なので、とイオンは云うが、タチフサグマを移動させられない以上それはつまりイオンも一晩ここで過ごすということだ。
野外で人気もない平原に、女の子一人を放置できるほどネズは人間腐っていない。
かと云って、それはちょっとと断ったところでどうすればいいのか。少なくとも自分一人でタチフサグマとイオンを運べないので、移動させるなら人出は要る。ではその手伝ってくれる人たちにこの状況をなんと説明すればいいのだろう。天下のジムリーダーの手持ちポケモンが、ジムチャレンジャーのスカートを握り締めて眠るなんて、どう考えてもただ事ではない。回復させたポケモンを使って移動させるにしても、目撃者への説明もややこしい。
かといってイオンひとりをここにおいて帰るのは、見た目とは裏腹に常識人なネズはには難しいことだった。
ではどうするか。
考えて考えて、もうひとつ頭を捻って考えて、ネズはひとつの答えをひねり出した。
「…仕方ありません。今日はオレもここでキャンプをすることにします」
「え?」
これには驚いたのはイオンだった。
何故そうなるのか理解できないし、誘ったつもりもない。
しかし真面目な顔でネズが口にしたのは、見当違いな気遣いだった。
「ああ、ご心配なく。さすがにいい年の男女がふたりきりで、というのは問題ですから、準備ついでにもうひとり呼んできます。少し待っていてください」
「いえ、私ひとりで大丈夫ですから…」
「なら云い換えます。オレもタチフサグマが心配なので傍にいてやりたいし、オレの妹が最近キャンプにはまっているのであなたも付き合ってください」
今度はイオンが絶句する番だった。
ガラルに来てからは随分キャンプに慣れたし、ひとりでいることも今更苦痛じゃない。野生の夜行性のポケモンさえいてくれれば周囲の警戒も出来るから問題ない。
しかしタチフサグマが心配だと云うネズの言い分ももっともだから、ひとりがいいから帰ってくれとは云いずらかった。
考えて、悩んで。
「………」
結局、折れたのはイオンだった。
「…わかりました」
「ありがとうございます。では少し待っていてください」
にこりと笑って、ネズはキャンプの準備と妹への根回しのために一度家に戻った。とりあえずマリィには最近キャンプにはまっているということで口裏を合わせてもらわなければならない。賢い妹ならばいろいろと察してくれることだろう。
「まずはジムを閉めて彼女の荷物を回収して、それから家ですかね…」
それにしても妙なことになったものだとネズはひとりごちる。
生まれも育ちもガラルで、ダイマックスの文化はネズが生まれるずっと前からあったそうだが、今までこんな事件は聞いたことがなかった。
一応ジムリーダーになる際、好きではないとはいえ知識として知っておく必要はあったので講習は受けていた。ダイマックス研究の第一人者であるマグノリア博士を招いての講習は非常に面白いものではあったけれど、それでも自身の手持ちにダイマックスさせたいとまでは思えなかったのは仕方のないことだ。
丸一日かけての講習ではダイマックスに関する知識はもちろんのこと、一般には出回っていない研究成果等も資料として配られたが、今回のような事例はひとつもなかった。あの博士の性格的に、臭い物に蓋をする行為をするとは思えないし、実際彼女はこんな事態を想定してはいなかったのかもしれない。ということは今回のことは非常に稀なケースなのだろう。
幸いにして、というべきか、何かに被害が出る前に今回は解決出来たが、念のため大会委員会には報告しなければならないのだろうか。
そうするとしばらくはジムチャレンジどころではなくなるだろう。
最低でも土地を調査してタチフサグマを調査して、おそらくイオンにも調査協力の要請は出るに違いない。しかしそれはあまりよろしくない気がする。というか彼女は非常に嫌がりそうだ。
しかし、このことを知っているのは今のところ自分とイオンだけ。
「………ふー…」
戻ったら一度イオンにこのことも話してみようと思った。大会中の事故は報告義務があるが、これは微妙なラインだし、ことがことなので慎重になるべきだ。何も何から何まで報告するのが正しいこととは限らない。
あと個人的な意見として、必要以上に大会委員会に関わってローズ委員長に口を出されたくないというネズの完全な私情もあるが、そこはまぁ伏せておくとして。
一方、思わぬ事態になってしまったイオンは内心焦っていた。
誰かと野外でキャンプなんて生まれて初めての経験だし、なんなら一人でない時間がこんなに長くなるのは実家にいた頃以来だ。
とある事情で人よりポケモンと一緒に居る時間が長いせいで、イオンはあまり人付き合いが得意ではない。だから友人はおらず、いつもそばにいるのはポケモンだけだった。
それでよかった。
自分にはポケモンさえいればよくて、このジムチャレンジだって自分の手持ちのポケモンたちのための参加で。
やっと決めたのに。
やっと決意できたのに。
ネズとの会話は嫌ではなかった。
それどころか、久しぶりに楽しかったように思う。
だけど。
…だけど。
「…どうして、今更」
吐き出された言葉。
苦しくてたまらない、悲鳴のような呟き。
けれどこのイオンの声は、誰の耳にも届かない。
タチフサグマは夢を見た。
自分を助けてくれた少女が、たったひとりで泣いている夢だった。
+++++
タチフサグマのデザインが割とドストライクで実は剣盾中一番好き。(過去作だとデンリュウが一番好き)