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プロローグ あっけなく終わるということ。
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「ふざけるな! こんなところ、二度とくるか!!」
どこぞの三流ドラマのような台詞とともに店内に響き渡る怒号。
顔を真っ赤にさせながら座っていた椅子を蹴り飛ばし、荒々しく出て行く人を笑顔で見送る。
「ありがとうございました」
普段であれば、少しおざなりに成りがちの先言後礼を綺麗に決め、最敬礼の角度のまま、普段より長くお辞儀したままキープして客が出て行ったと同時にゆっくりと上半身を起こす。
もちろん、笑顔は崩すことなく、周囲に居た客に迷惑をかけてしまったことを詫びながら上司へ、事の始末を報告しに店舗裏の事務所に繋がる扉へと歩を進めた。
お客様達からでも見える位置にあるスタッフオンリーと書かれた扉を前に少し深呼吸をついて、ノックをする。
「はい、どうぞ」
中から部屋の主が許可をする声が聞こえ、スライド式のドアの取っ手を掴めば、薄っすらと聞こえるすすり泣きの声。
嫌な予感を覚えながらも心を落ち着かせ、表情は穏やかに作ったまま、中へと足を踏み入れた。
「…失礼します。店長、ご報告が…」
「ぅ…う、ふぇ…和泉さぁーん。ほんとに、本当にすみませんでしたぁ~」
中へと入ってみれば、人に媚びているかのような甘ったるい女子っぽい声を上げながら泣き喚くぶりっ子が一人と心配そうな趣でぶりっ子を慰めている男が一人。
その光景に思わず、明けたドアを閉めたい衝動に駆られる。掴んでいたドアの取っ手を力いっぱいに握り締め、何とかその衝動に耐え抜き、その二人の下へと歩み寄った。
そうすれば、悲劇のヒロインと化した生き物が神にでも祈るかのように私にすがりついてくる勢いで近寄ってくるので、思わず、手を目の前に出し静止させてしまった。
「木村さん、わかったから。店長にはどれだけ話せたの?」
「う、ふぇ…ま、まだ話せてませぇ~ん」
「…そう。では、私から報告をしてもいいかしら?」
「は、はぁ~い…」
今にも青筋が立ちそうになるのを抑えながら、心を落ち着かせるために癖になってしまった笑みを作り、視線をそっと店長へと移した。
出来ることならば苛立つ存在すら視界にすら入れたくはないのだが、そうも言ってはいられない。
何故なら、この泣いている悲劇のヒロインを気取っているこいつこそが冒頭で私が怒られてしまった『元凶』なのだ。
その『元凶』が不在であっては、今回のクレームに対しての最善の対処を決めることも出来ないという負の連鎖に嵌ってしまうので、早急に嫌なことは終わらせてしまうのに限る。
「店長、結果から申し上げますと…今回のクレームの件ですが、木村さんの説明不足によるものでお客様は一切、月々の金額がどのぐらいになるのかを聞かされておらず、ただこれがおすすめだと言われただけで契約してしまったとおっしゃっておりました」
「えぇ~?!
そんなことを言ってたんですが、あの客!
酷い、私はちゃんと全部説明したのに…」
『何でこうなっちゃったんだろう』などと言葉尻に吐きながら、自分の擁護を開始し始めた元凶。
その往生際の悪さを冷めた目で見つめながら、なかなか進むことが出来ない報告業務を無理矢理遂行することにした。
「たとえ、説明をしたのだとしても相手に伝わっていないのならそれは説明をちゃんとしたとは言わないわよ、木村さん。
それと、今は報告中であって言い訳を発表する場所ではないから私語は慎んで」
「っ…は、ぃ」
「まあまあ、和泉さん。
そのことについては十分、木村さんだって反省をしているからそうきつく言わないであげてよ。
ただでさえ、心のない言葉を掛けられて傷心中なんだから…」
「…ですが、店長。
今月入ってから木村さんに対するクレームが多発しています。
そのどれもが説明不足や説明ミスによるものです。さすがに、これではお客様の信頼を失い、瞬く間にお客様の足が遠のいてしまいます」
「別に理解のない客だったら、遠のいたっていいじゃない。
無駄に時間を割く手間がこれから省かれるし。俺だってそんな説明しても理解できないような客なら来ないでもらった方がいいね」
何とかして報告業務を進めようとした矢先に店長からの『元凶』に対する擁護が始まった。
まだ何も、事の次第を説明していないと言うのに頭ごなしに私の説教を一括しまう。
「…では、店長は今回のクレームについては木村さんの責任ではなく、あくまでお客様がご理解のない方だったとおっしゃるのですね」
「だって、人目も気にせず怒鳴り散らすような馬鹿が理解あるような客だとは思わないよ」
一気に疲労感が体へと押し寄せてきたと同時に頭痛を見舞われる。
思わず、そっと手で頭を押さえてしまった。
私の言葉など取り繕う暇もなく、一掃してしまった店長に腸が煮えくり返りそうになるのをぐっとこらえ、一つ深呼吸を付く。
ここで二人を説教しようものなら、私の体力がごっそりと持っていかれてしまう。
ただでさえ、今日から6連勤と言うシフト制にしてはきつい労働を課せられてしまっているのだ。出来る事なら体力は温存しておきたい。
「……そうですか。
わかりました…では、報告をするまででもなかったですね。お時間を取らせてしまい、申し訳ございません。
ですが、さすがに事が大きくなってお店の評判に傷がつくと大変なので私の方からもう一度、お客様に謝罪のご連絡をしようと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「ああ、その点は和泉さんに任せるよ。
何せ、クレーマーをリピーターに変えることが出来るんだから、クレームの事は全部和泉さんに任せる。頑張ってね~。
あと、この間の高崎さんのクレームの人、だいぶしつこいようだから和泉さん、処理しておいてくれない?」
嫌味のようにクレームを軽視している店長に対して、脅しにも近い言葉を並べて言えば、これまた嫌味なほど胡散臭い笑みを浮かべながら、余計な仕事を押し付けてきた。
こんな面倒事を押し付けられることは店長だけでなく、同僚達でさえもあることなのだが…なぜだかこいつに頼まれる仕事ほど、むかつくものはない。
そんなことが頭に過ぎったと同時に私の中で何かが切れた音がしたような気がした。
「…かしこまりました。
では、仕事に戻りますので失礼致します」
「ああ、それと木村さんこのままフロア出させても仕事にならないから休憩させるってみんなに伝えておいて~」
「はい、かしこまりました。
もし、仕事にもならないようでしたら、帰ってもらっても構いませんので。
木村さん、ゆっくり休んでちょうだい…それでは」
すでにこの場から立ち去りたかった私は、フロアに続く扉を前まで早々に歩き、勢いよく扉を開け放つ。
思いの外、苛立ちが表に現れてしまっていたようで、すさまじい音が扉から発せられたようだが、私は怒りに身を任せていたのでそんなことは気にしていられなかった。
本来であれば、一礼をしてフロアへと行くのが基本なのだが、あのふざけた連中らに下げる頭など私は持ち合わせてなどいない。
扉を開け放った時と同様に荒々しく扉を閉めれば、携帯の什器が置かれて広がるフロアに心配した趣で見つめる同僚の目。
きっと彼らは私がどのような扱いをされたのかが、安易に想像できるので同情をしてくれているのだろう。
私だけでなく、彼らはきっと他の人達にもあのような態度をしているのだ。
ふ ざ け る な
なんて、言えたならどれだけいいだろう。
この言いようのない怒りを静めようにも、一度火が付いてしまった炎は消えることなく私の中で燃え広がっている。
こんな時に接客をした日には、クレームを引き起こす不の連鎖に陥ってしまうので、出来るだけ人とは関わらないように無言のまま、作業用スペースのパソコンが備え付けられている席へと向かい、そっと着席をして、店長よりも上役に報告する報告書を作成することにした。
慣れた手つきでパソコンを起動し、報告書のフォーマートを開いて、無表情のまま書類作成に打ち込み始める。
「また、店長と木村に面倒事を押し付けられたみたいね。和泉ちゃん」
誰も近づけさせない雰囲気を醸し出しながら仕事をしていたというのに無遠慮にも同情するような言葉をかける人が一人。
同情する言葉とは裏腹にどこか楽しんでいる声音に思わず、眉間に皺を寄せながら相手の顔を捉える。
「高崎さん…何か人の不幸を楽しんでいません?」
「うん、楽しんでる。
だって、あの二人さ…周囲にあれだけわかるように怪しい雰囲気出しているのに『不倫している』ってことが気づかれていないって思いながら、過ごしているって思うと、笑えるし。
そして、何よりもそれに巻き込まれている和泉ちゃんの哀れさに涙と笑いが出るわ」
明らかに不機嫌丸出しの私とは対極的に笑いを抑えることに必死のこの女性は、同期で4つ上の高崎さん。
傍から見れば、結構、辛辣な言葉を浴びせているように見えるが、これは私達の間では普段の掛け合いである。
ある意味、下心や本心ではないのに慰められるよりは、心から思っていることを素直に話してもらった方が気遣いをすることなく会話が出来るので気が楽なのだ。
それは、同じ苦難を乗り越えてきた同期だからこそ出来ること。
この酷い言いようの言葉ではあるが、それも彼女のなりの気遣いと言うことはちゃんと理解しているつもりだ。だからこそ、私はこの人と話していても苛立つこともないし、尻拭いをさせられても苦ではないのだ。
だからかもしれない、彼女が話しかけて来てからは先程まで静まることを知らなかった怒りの炎が少しずつ沈下していくのを感じていた。
「笑ってないで、何とかしてもらえません? あの二人。
こんな小さい社会で不倫はするは30にもなったおっさんはプライベートと仕事をきっちりと分けられないわ、書類も満足に作れないなんて最低だし。
その相手だって既婚者だと知りながら付き合うし、喧嘩もすれば、空気悪くする。
クレームを起こしてもまともに処理もできないわなんて…もう最悪なんですけど…」
「何とかするのは無理よ~。
だって、あの二人…一種の病人だから」
「病人って…どんな病気にかかってるっていうんですか?」
「うーん、まあ、私には理解はできないけど、恋してないと生きていけない病気にかかっているのよ」
「…うわぁ…それ、死なないと一生治らない病気ですね」
「いや、あーいう人達はきっと死んだって治らないわよ」
「あー、確かに…無能さも治らなさそうですもんね~。
なんで、あんなのが店長何だか…」
「仕方がないわよ、歳いってるし、既婚者子持ち、社歴が長いんじゃあ、上だってそれ相当の地位を上げないとって思うんじゃないの~?
接客営業って言う実力主義の世界なのに、そんな古風な社内体制で居たら実力持ってる人はどんどんいなくなるわよねー、だから、万年人手不足なのよ」
「原因はわかっているのに、どうすることもできないんですけどねー」
毒を少しずつ吐き出すかのように不満を呟いていけば、止めることが出来ない醜い言葉たち。
いくら、ここで不満を言ったところで現状を良い方向へと導けるほどの権力も技も私達は持ち合わせてなどいないのだ。
仕事をしているとよく、何もできない自分の非力さを身に染みて感じさせる。
こんなこと、きっと思わない日は一度もないだろう。
何も打たれなくなっていたパソコンを見つめながら苦笑すれば、そっと肩に乗せられた手。
「それでも、何もやらないわけにはいかないでしょう?
私達に出来ることはやっていこう…目の前に来るお客さんを大事に、困っている仲間がいれば助けてあげたりさ。
それを出来るだけの力は私らにはあるんだから、頑張っていこうよ」
「高崎さん…」
「まあ、1人でやるとただ潰れるだけだからさ…。二人でちょっとずつやってこうぜ。
無理しない程度にな」
『て、わけで私のクレーム処理も付き合って~』なんて最後には、感動クラッシュを引き起こしてくれたが、それもきっと彼女の照れからくる誤魔化しなのはすぐにわかった。
さっきまで人の顔を見て話していたのが、顔を背けて近くに置いてあったお客様のスマホの修理品を点検し始める。
「もう~、高崎さんが人の仕事を増やさないで下さいよー」
「だって、あの客…どうしたって私と相性が悪すぎるのよ。
間違いなく、あれは和泉ちゃんが適任だわ」
「もう…内容とお客様の特徴をこのクレーム報告書を作成終わり次第、確認させてくださいね」
先程から止まっていたパソコンを打つ手を動かし始め、今、目の前にある仕事をてっとり早く終わらせようと急ぐ。
クレームばかりに時間を取られてしまっていては自分の仕事を熟すことは愚か、人を助けることなど到底出来るわけがないので、感傷にばかり浸ってもいられない。
幾分か人に自分の気持ちを吐き出せたおかげでだいぶ、まともな思考回路が戻ってきた。
これなら、一日の仕事の流れを組み立てることが出来そうだ。
「ちょっぱやに終わらせてもらえると助かる。
もう、クレームになってから早1週間も経ってるのに沈下するどころか、炎上しまくって困ってるのよ」
「はいはい、ちょっぱやに終わらせるので代わりに今日の仕入れ業務とフロアの接客業務を頼めますか?」
「了解。
あと、棚卸近いから準備しておくし、HP作成は任せて~」
「助かります。メルマガ配信も準備しておきますね。
あと、チラシの件で上と話さないといけないので時間貰ってもいいですか?」
「大丈夫よ~。とりあえず、午前中に全て終わらせてもらえると助かる。
今日はすでに一人戦力外だから一人休憩に行ったら最後、フロアが回らなくなるからさ」
「わかりました…あと、1時間でどうにかクレーム対応とチラシの件を終わらせておきます」
狂わせられていた調子が戻り、やるべきことを整理していけば、自ずとすぐにやるべきことはでてくる。
それを自分の中で時間帯を割り振りし、何とかギリギリやれそうなので早々にクレーム対応を処理し始めることにした。
私がいつまでも仕事を終わらずにいては、休憩がいつになったって回せることが出来ないし、負担が他の仲間達に響いてしまう。それだけは何としても避けなくてはならない。
その一心で目の前の厄介な仕事を片付けにかかれば、見る見るうちに片付けられていく仕事達。
高崎さんのクレームも大方沈められる目途が立ち、チラシの件も上に怒られながらも新しい案をどんどん考え、企画書の再提出も済んでしまった。
今回のクレームについてはお客様の怒りが静まりかけた頃合いを見計らい、連絡を入れれば今日の面倒な大きな仕事は終わる。
一気にやり切った達成感を噛みしめながら、時計を見れば、お昼がかかる時間帯になっていた。
これなら、休憩を回しても問題なさそうだと座りっぱなしだった椅子から立ち上がり、お客様がいない状態なのを確認した上でフロア内にいる仲間達に声を掛ける。
「時間取らせてすみませんでした。
和泉、大まかな仕事は完了したので休憩回しましょう!」
「お疲れ様です、和泉さん!
じゃあ、俺、休憩入ってきちゃいますね~」
「うん、フロア任せっぱなしにしてごめんね~緒方くん。
ゆっくり、休ん…っ…」
お客様がいないこともあり、普段なら緊張感がある状態のフロアが穏やかな雰囲気が流れた時だ。
この穏やかな状況に微笑みを浮かべながら、後輩に休憩へ入ってもらうためにフロア内へ立ち入った。
その突如、何かで脳を縛りつけられるような鋭い頭痛に見舞われた。
あまりの痛みに私は立っていることが出来ずにその場に倒れこんでしまう。
いくら片頭痛持ちの私でもこんな酷い頭痛に襲われたことはなくて、思わず両手で頭を抱えてしまった。
「え、ちょっと和泉ちゃん大丈夫?!」
いきなり頭を抱えて倒れてしまった私に普段はあまり出すことがない心配した声音を発しながら駆け寄る高崎さんが遠くなる視界に映る。
その表情は、どんなクレームの時でも怒りや悲しみで眉一つも動かす事がないほど鉄壁なのに、この時ばかりは歪んでいた。
そんな表情をさせてしまったことが申し訳なくて、どうにか大丈夫だと言いたいのに痛みはどんどん増すばかりで声すら発する事が出来なかった。
―――痛い、いたい…
知らぬ間に涙が頬を濡らしていた。
もうこの職についてから枯らしてしまったと思っていた涙が流れたのを自覚した途端に、一気に暗転していく視界。遠のく、声と意識。
一瞬にして真っ暗な世界に包まれ、痛みを感じなくなってようやく私は理解した。
『ああ、死んでしまったのかもしれない』と。
☆あっけなく終わるということ。☆
―――死への恐怖よりも苦しい明日が訪れないことにホッとしてしまった。
もう、こんな理不尽なことに耐えなくても済むのかと思ったら、ちょっとだけ心が軽くなったのだ。
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