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さくらんぼのガヴォット1
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高校二年生。ゆっくりと気温の上昇を感じる爽やかな風の吹く頃、はじめは連休中に毎年必ず帰省する。さくらんぼの収穫を手伝うためだ。
今年も自分で収穫したさくらんぼの一部をのばらの所属事務所と彼女の実家におすそ分けをするため気合を入れて収穫に励んだ。
大好きな祖父と歌の上手い父と三人で見上げる木は、今年も赤い宝石を散りばめたように美しい。忌々しい鳥類から祖父が守り抜いたさくらんぼを傷付けないようにケースに入れていくと、幼い頃から何度もベルばらごっこをしていた二人の姉が声を合わせて名を呼び始めた。
弁当を持っきてくれた姉と祖母、母親と、レジャーシートをビニールハウスのすぐ外の平面な場所に敷く。家族全員で集まって会話を楽しみ、手拍子をして父の歌を聴く。
正月よりも、薄桃色を眺める花見よりも、青葉と赤い果実を見て食事をする方がはじめは好きだった。
「はずめちゃーん、とりあえずこれ、名字さんち持っていきなよ」
弟の名前以外はすっかり標準語に染まった姉に言われるがまま箱を受け取り、一度家に戻って身だしなみを整える。
昨年も同じように訪ねた時は彼女の父親が玄関に出てきてくれて問題なく渡すことができたが、母親の方が出て来たら受け取ってもらえるかすら怪しい。らしくもなく緊張にため息をこぼす。
さくらんぼの箱を入れた紙袋を手に家を出てバス停に向かう途中、観光客すらあまり通らない田舎道ではあまり聞かないパンプスの踵を鳴らす音が耳に届いた。
まさか、そんなことあるわけがないのだ。はじめは偶然、たまたま外行きの格好をした女性が歩いているのだと自分に言い聞かせるが、突然吹いた風に煽られて日傘を傾けた少女の顔に足を止める。
幻でも見ているに違いない。いや、幻でも良かった。幻でも良いから側に行きたい。また隣で優しく微笑みかけてくれたなら、例え触れられなくとも構わない。
少女もまた、一度傾けた傘をそのまま元に戻さずにその場に足を止めた。1年と数ヶ月という月日をかけて、少女だった彼女は少し大人びていた。それでもまだ残る儚げな印象、目を見張るような美しさは変わらない。
「はじめくん」
スピーカー越しの声よりもさらに澄んだ声に聞こえる。心地よい春の風に乗って耳をくすぐる花弁のように繊細で優しい声だ。
「のばらさん……どうして」
今にも駆け出して触れたい。触れて存在を確かめたい。けれどそんな軽率な行動に出るわけにもいかない身分とは重々理解している。
そんなはじめとは対照的にのばらは髪を揺らして駆け出した。
もしも、万が一誰かが見ていたら。写真を撮られたら。脳裏に蘇るのはのばらの母親の言葉だ。
――『くれぐれものばらちゃんの邪魔をしないでくださいね』
心のままにその体を抱きとめてやれたらどれほど良いのだろうか。しかしのばらのことを応援したい、好きなことを好きなだけやってほしい、バレエの発表会で見た楽しそうな笑顔がまた何度でも見たい。そんな気持ちがはじめを冷静にさせる。
ここ一年間、はじめのスマートフォンに届く写真に映ったのばらは幸せそうで、舞台の上でもテレビの向こう側でも雑誌の中でも一目惚れをした時と同じ笑顔を何度も目にした。その度にはじめも幸せを感じたのだ。切なくても、寂しくてもその輝きに満ち溢れた笑顔が見れるのだからそれだけで良かった。
はじめは手に持っていた紙袋を体の正面に持ち、のばらの目によく見えるように差し出すような形で壁を作る。
「丁度、君の、ご実家にと……思っていたんですよ」
声が震えてしまったのは計算外だった。のばらほど、はじめは上手い演技ができない。案外難しいものだと改めて実感する。
徐々にスピードを落とし、正面に立ち止まったのばらの瞳が潤んだその悲しげな光沢に胸を針で突き刺されるような気持ちになる。だがのばらが一度瞬きをしてすぐ笑顔を浮かべたのに安堵し、なんとか笑みを返した。
「はじめくん帰省してたんだね」
「収穫時期ですから。君も帰省ですか?」
「近くで撮影があったから、はじめくんのうちにお土産持っていこうと思って」
のばらもはじめのように紙袋を掲げてみせた。テレビ局のロゴマークがついた紙袋に、テレビ好きの世代である祖父母が喜ぶ姿が思い浮かぶ。
「せっかく近くまで来てくださったわけですし、良かったらさくらんぼ狩りでもしていきますか?」
のばらの瞳がぴかぴかとわかりやすく輝いて見える。これは涙で、ではなくて喜びや期待のそれだ。
スカートとパンプスという格好で、とてもさくらんぼ狩りなんてできるわけがないのばらに自分がかっこよく華麗にさくらんぼをとって食べさせてやりたいという下心のようなものも勿論あった。が、純粋にここまで来てもらってお茶の一つも出さないのはあまりにも非礼だと思い、おそらくはじめは相手がのばらでなくても同じ提案をしただろう。
はじめの足取りは軽い。
あの朝のドラマに出演していた女優がさくらんぼを食べてくれる様子を見たら、祖父はきっと大喜びしてくれるに違いない。そういう期待もわずかにあった。
大好きなのばらと祖父と自慢のさくらんぼ。この組み合わせが幸せ以外のものを生み出さないわけがない。
再会したのがさくらんぼの美味しい季節なのはまさに奇跡であり運命的だ。
はじめはやはり自分こそ選ばれたこの世で最も運のいい男だと確信し、隣を楽しげに歩くのばらに微笑みかける。
手を繋がなければ恋人同士に見えないだろうというのはかなり浅はかな考えだが、それでも二人の姿を見た地元の老人たちの視力が悪かった事が幸いし運の良い二人は事無きを得るのだった。
※ゴセックよりも、バッハの方のガヴォットをイメージして書きました。可愛い曲なので良かったら聴いてみて下さい。