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さようなら、トロイメライ
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――何も感じなかった。リハーサル中もそうだった。彼女はもうボクが愛していたあの人ではないはずだった。
照明の下、一等星のように眩しく歌う少女の姿に目も耳も奪われて、はじめは戸惑いすら感じる。
柔らかい笑顔、安定した声量、何よりもその声質が心地よい。
そこには確かにあの日のバレエの発表会で見たのばらの姿があった。
幾度となく恋い焦がれたのばらの姿を見つけたのだと胸の鼓動が伝える。
――ボクは本当に表彰台に立つ君のその経歴が好きだったのだろうか?
はじめは自分のデータに無いもの、想定外のものが嫌いだ。この敗北感、悔しさはもっと嫌いだ。
青学との試合が終わり、予定よりも早く付いた帰路。木更津淳のスマートフォンがけたたましく何度も何度も振動音を鳴らした事で、ようやく怒りから気が逸れる。
双子の兄、亮とでも会話しているのだろうかと思ったものの、ほとんど同時に柳沢慎也のスマートフォンも鳴っている事に気付くと、二人と共通で交友関係のある3組の生徒となぜかよく集まってカラオケなどに行っているらしいスケート部フィギュア組の姿が脳裏に浮かんだ。
そういえば今日は彼女らも大会だと言っていたな、そう思い自分にものばらから連絡が来るではないかと確認しようとした時、顔を蒼白にした木更津にはじめは手首を掴まれた。
「観月、病院に行こう」
「はい? どこか怪我でもしたんですか?」
「名字が怪我で運ばれただーね」
試合に負けたその瞬間よりも冷たく嫌な汗が全身から吹き出した。
共に寮に向かう他の部員に別れを告げるのも忘れて、急いで地図アプリで病院の場所を確認する柳沢の後ろを早足で進む。
何も感じないわけがない。
のばらを永久に失うことなど、これまで考えた事がなかった。
まるでのばらの怪我の痛みが自分にも伝わっているかのように心臓の辺りが鈍く疼いて視界が狭くなる。
のばらがスケートを心から楽しんでなんかおらず、本当にやりたくてやっているわけではないとはじめは知っている。
いろいろなのばらを見てきたはじめにわからないわけがない。
――それなのにボクは彼女を応援してしまった。勝てなんて言ってしまった。これはボクのせいだ。ボクのせい、ボクの……
勝利のためにと押し込んでいた、不二裕太の腕のことを心配するもう一人の自分が愚かな自分を睨みつける。
スケートの大会の行われた会場の近くの駅に着くと、改札を出たところでスケート部の女子生徒が木更津と柳沢の名を呼んだ。
「淳くん! 慎ちゃん!」
泣きそうな顔、いいやもう泣いた後なのだろう濡れた瞳で3人を待っていた女子の様子から、のばらの怪我がかなり深刻だと認識して目眩がする。
よろけたはじめを無言で木更津が引っ張ってなんとか体勢を戻させて、再び早足で病院へ向かう。
――もしも二度と、彼女が本当にやりたかった、好きだったバレエができなくなってしまったら
病室には部活の顧問と他の女子部員が並んでいた。
ベッドの上で片足にギプスをはめられているのばらを除いて皆苦しげな顔に無理矢理笑顔を浮かべていた。
「あー! 来た来た! 淳くんと慎ちゃん試合どうだったの?」
明るい笑顔を浮かべるのばらに木更津と柳沢が顔をちらりと見合わせる。
「覚えてないだーね」
「負けたよ」
「ねえ、慎ちゃん顔のそれ、ぶつけたの?」
「覚えてないだーね」
「ボールが当たって気絶したんだよ」
「わたしより慎ちゃんの方が大変だ!」
ようやく少し穏やかな空気になったところで顧問が女子生徒たちに声をかけると、名残惜しそうに順番に病室を出ていった。
木更津と柳沢もそれに続くように「二人で話したら」と言って一緒に病室を出て行ったところで、のばらはようやく観月に視線を向ける。
「観月くんは試合どうだった?」
勝たなければ意味がない、最終的に勝つ人が好きだとあれだけ言っていたはじめにとって、それに答えるのはひどく屈辱的で羞恥心と悔しさがまたじわじわと心を蝕んでいく。
何よりも、のばらをこれだけ傷付けて貴重な中学3年の夏とそこから始まったかもしれない別の未来を奪ってしまったことに自分に対しての激しい怒りや、情けなさ、詫ても詫きれない大きな罪悪感で視界がじわじわと霞んでいく。
あれほどまでに優しく、愛情深い目で見つめてくれた人を突き放して、挙げ句自分はあっさりと負けて帰ってきた。
「……負けました」
はじめの言葉にのばらは優しい声音で「うん」と相槌をうって返事をした。
顧問が座っていた椅子にのばらが指を差して座るようにと促したことで、観月はふと足が疲れているのを思い出してゆっくりと腰を掛けた。
「ボクは、君に酷い事ばかり」
「わたしは観月くんに酷い事なんて一度もされてないよ」
泣きたいのはのばらのはずなのに、先に溢れ出してしまった涙が一筋、はじめの頬を伝って顎に留まる。
泣いたのはいつぶりだろうか、覚えがない。
「観月くんはいつもわたしのことを守ってくれて、頭もいいし優しいよ」
「ボクは君に、無理矢理スケートをやらせて怪我をさせたんです。ボクのせいで君に怪我をさせてしまった……全部ボクのせいです」
「それは違うよ。わたしが自分の意思でスケートをとったの。観月くんにこの学校で会う前から……だから罰が当たったんだよ、スケートをちゃんと愛している人たちから表彰台を奪ってしまったから。だから本番前の練習で転んだりして……こだな怪我をすて……」
「罰なんて、ほだなこどない!」
「はずめぐん、なまってっず」
「あ、いえ、今のは君が先に」
こんな時だというのに無邪気に笑うのばらに、はじめのぐちゃぐちゃになっていた心が落ち着いてようやく冷静な心を取り戻す。姿勢を正し、まだ笑っているのばらを見つめると小さく頭を傾げられて可愛らしいなと素直にそう思った。
「ボクにこんなことを言う資格なんて無いと思いますが、これからはずっとあなたに、あなたのやりたい事をやって欲しい。そのためなら何でもします」
「わたしは、観月くんに罪滅ぼしみたいなことをして欲しいなんて思わないよ。この怪我は自分の実力不足だから」
きっぱりと断られるが、頑固だと自覚すらあるはじめは食い下がれるはずもなく同じような言葉を繰り返す。
「ボクは君の望むことを全て叶えたい」
「観月くん、落ち着こうよ。そういうのは好きな人にしてあげて」
「ボクは君が好きです。楽しそうに笑う君が。勝ち負けなんてもうどうだっていい。君が幸せそうにしているのが何よりも一番だ。今更こんなことを言われても信じられないかもしれませんが、都合のいい話かもしれませんが、ボクは君が好きです」
「……わたしのどこがいいの? 負けどころか出場すらできなかったんだよ。3年の、この時期に全治3ヶ月だって。ただでさえ出遅れて……この大会が終わったらみんな海外留学とか遠征に行くの。それに参加できないってことは、もうわたしの選手生命は」
「スケートをしている君よりも、ただ、笑っている君が好きです」
「スケートだけじゃない。もうわたしはプリンシパルにもなれない。もうあの高みを目指す人たちはもう外国の学校やバレエ団で毎日練習してるの。わたしの好きなことなんて……わたしの夢なんてもう叶わないの。でも全部わたしがそれを選んだの。もう大好きだったバレエは捨てたの。やりたいことなんて、何もないの」
それまで笑顔だったのばらの顔にようやく現れた深い悲しみの感情。はじめは鋭い胸の痛みに苦しくなってぐっと拳を握る。
先に沈んでいた身勝手なはじめのことを非難せずに優しく笑いかけてくれたのばらの本心に触れた事で、浅はかでどうしようもない過去の自分を更に強く殴ってやりたいと強く願う。
スケートを辞めても良いのだと背中を押していたら、何か変わっていたのだろうか。
過ぎた過去は変わらない。
自分はこんな時、彼女に何を言うべきなのか? はじめにその答えはわからない。
「観月くん、わたしのこと可哀想な人だって思っているでしょ」
「……ボクは、君に」
「一つだけあるよ、やりたいこと」
「なんですか? ボクに手伝えることなら何だってやります。一緒にリハビリをしましょう、君に合わせたメニューを考えます。きっと今からだって君は」
「観月くんの彼女。本当の彼女になりたい」
――どうしてこの人は、ボクのことなんて想ってくれるんだろう?
重なる視線。まるで時間が止まったように、自分の鼓動の音以外全てが止まって何も聞こえない。
椅子から体を浮かし、ベッドの端の方に片手をつく。
緊張で息が止まる。目を閉じてものばらがどこにいるかわかるくらい、温もりを感じるほど近くまで顔を寄せた。
初めて人の唇に自分の唇で触れると、驚くほどそれが柔らかいのだと知る。まるで果実の香りのする甘いギモーヴを口にしたようだと思った。
ほんの数秒の出来事だというのに、元の体勢に戻ってから世界がまるで全く違うもののように感じる。
どこまで浅はかで、愚かなのだろうか。キスをしてようやく本当に心からのばらを愛おしいと思っている自分に気が付く。
こんなにも他人を好きになることが今後あるだろうか? いいや、無い。
「こうやってずっと、ずっと哀れなわたしを好きなふりをするの? 観月くんは何も悪いことなんてしてないのに」
――嗚呼、僕は今後この人からずっと信頼を得られないかもしれない。
「ボクは、本当に君の事が好きです」
「わかんないよ、全然。わたしは観月くんが大好きだけど、観月くんが好きだったのはバレエをしていたわたし、やる気も無いのにスケートで賞をとるわたしでしょ」
「全部好きです。スケートを一度辞めたこと話して下さった時にあんな態度をとって、もう信じてもらえないかもしれませんがそれでも何度でも言いますよ。ボクは君を愛している」
「……全然わかんないよ。ごめんね、今日はもう帰って」
「……明日も来ます」
同じ方向を向いているベクトルが、必ずしも交わることなんて無い。長さが違えば交わることは無い。
遠く遠くへのばらが離れている。キスを拒まず、愛おしげに見つめ返してくれたのに。
――ボクはいつか、君に信じて貰えるときが来るのだろうか